榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

老人読書の醍醐味を縦横無尽に語ったエッセイ集・・・【情熱の本箱(112)】

【ほんばこや 2015年11月13日号】 情熱の本箱(112)

百歳までの読書術』(津野海太郎著、本の雑誌社)で語られているのは、老人の、老人による、老人のための読書術である。著者は、70歳からの読書を念頭に置いているようだ。

正直に白状すると、前半は淡々と読んできたのだが、後半に入るや俄然、目を瞠らされることになった。

「そうこうしているうちに、ある瞬間、ああ、こういうことだったのか、と全体の感じがふっとつかめたような気がする」と書き出された一文で、『増補 幸田文 対話』(幸田文著、岩波現代文庫、上・下巻)の話が出てくる。「小堀杏奴、志賀直哉、江戸川乱歩、安藤鶴夫といった人たちとの対談集。なかの一編、山本健吉との対談で、文さんが、父は日ごろ『一つのことに時間をとって、まごまごしていては損だ』とよく口にしていました、と語っている。それが『父』こと幸田露伴の読書法、もしくは勉強法だったというのである。<・・・一つのところばかりに専念するのでなく、八方にひろがって、ぐっと押し出す。軍勢が進んでいくようにとか言ってましたね。(略)氷がはるときは先に手を出して、それが互いに引き合ってつながる。そうすると中へずっと膜をはって凍る。知識というのはそういうもので、一本一本いってもうまくいかない。こういうふうに手が八方にひろがって出て、それがあるときふっと引き合って結ぶと、その間の空間が埋まるので、それが知識というものだという>。本を読んでいて、これこれ、まさしく私はこういう文章が読みたかったのだ、と感じることがよくある。このときがそうだった。そうか、露伴先生の読書は八方にひろがってパッと凍るのか。すごいね。もちろん露伴もだが、むかし父親が語ったことを、かくもキリリとひきしまったコトバで思いだせてしまう娘もすごいやーー。そう考え、あわせて、おや、この『八方にひろがってパッと凍る』というのは、どことなく、私のお祭り(式読書法)のやり方に似ているんじゃないかな。そう思った。・・・死んだ露伴先生が巫女としての娘の口を借りて勝った『知識』についての論が、老いた私を元気づけてくれた。そう感じさせてもらっただけでじゅうぶん」。これこれ、まさしく私もこういう文章を読みたかったのだ。

「全く、本など手元になくても何ら不都合が生まれないことは、私たちの常識だ。同胞の過半数あるいは圧倒的多数が本なんか読みゃしないという事実を、もし忘れかけていたのなら、もういちど頭に叩きこんでおこう。叩きこんだ上で、なおかつ私は本を読む。本から本へと渡り歩く」という岩田宏の文章が引用されているが、私も本から本へと渡り歩いてきたので、共感を覚えるなあ。著者の、「『古い本』を読むことは単にそれだけでは終わらない。しばしばそれが読む者を予期していなかった方向へと押しやってしまうからである」という指摘にも、思わず頷いてしまった。

この岩田の、革命ロシアの詩人・劇作家、ウラジミール・マヤコフスキーに対する思い入れが、実に興味深いのである。「岩田さんは19歳のとき、この前衛詩人のとてつもない世界にいかれて以来、一貫してかれへの切実な関心を捨てずにきた。その点で他の作家たちの場合とはちがう。『マヤコフスキー詩集』の刊行が1952年で、71年には『マヤコフスキーの愛』という論集もだしている。にもかかわらず『衝撃的』というのは、詩人の生誕100周年にあたる1993年前後に、途轍もない新事実がたてつづけに明らかにされたからだ。そのひとつは、これまで拳銃による自殺とされてきた詩人の死が、どうやら秘密警察ゲーペーウー(のちのKGB)による謀殺だったらしい、という疑いが生じたこと。そしてもうひとつが、『昔の私たちには詩人のミューズとも、ベアトリーチェとも見えていたこの女性が、実は秘密警察に籍を置く薄汚い<タレコミ屋>だった』という事実の暴露。『この女性』とはリーリャ・ブリーク。私もそのひとりだったが、その昔、マヤコフスキーとリーリャとその夫オシップとの友情と恋愛がいっしょになったような三角関係が、若い連中のあいだで、けっこう伝説化されて語られていた時期があるのですよ。これらの残酷な事実を岩田さんは何冊かの新刊本や新聞記事で知った。しばらくはひとりでその情報をかかえこんでいたようだが、とうとう居ても立ってもいられなくなって、北村太郎、堀川正美、三木卓といった親しい詩人仲間にあつまってもらい、じぶんが知り得た『写真週刊誌的情報』を洗いざらい報告する。それが1988年のことであった。ところがその後、ワレンチン・スコリャーチンという『在野の研究者』が、その事実を精密な調査によって実証してみさた本が1998年に出版される。それを読んで『私の茫然自失がいよいよ募ったことを、恥ずかしながら白状しなければならない』と岩田さんはしるしている」。

「岩田さんにとっての革命ロシアの詩人マヤコフスキーがそうだったように、まだ少年や青年だったじぶんが大切にしていたなんらかのイメージが、何十年かの時間が経過したのち、思いがけず発見された新資料や大胆な仮説によってガラリと一変させられてしまう。そのおどろきから、とつぜん新旧を問わない本から本への集中的な『渡り歩き』がはじまる。『老人読書』とは、このような高齢者特有の発作的な読書パターンをさす。なぜ高齢者特有というのか。少年や青年、若い壮年の背後には、ざんねんながら、それから『何十年かの時間が経過した』といえるだけの時間の蓄積がないからだ。だったら当然、かれらにその種の読書があるわけがない」。そうだ、そうだ、そのとおりだ。

その後、『マヤコフスキー事件』(小笠原豊樹著、河出書房新社)なる本が著者のもとに送られてくる。小笠原豊樹は岩田の本名で、岩田は80歳を超えてもマヤコフスキー事件の真相究明を諦めていなかったのである。老いの執念というべきか。「詩人にとっての『宿命の女』ともいうべきリーリャ・ブリークへの著者(岩田)の愛想づかしのはげしさが、とくに印象にのこった」と書かれては、『マヤコフスキー事件』を読まずにはおられない。こういう気持ちに駆り立てられたのは、私だけではないだろう。

「もうしばらくすると私は消えてなくなる。そんなギリギリのところで、たいていは偶然のきっかけから過去の経験を新しい目で見なおさざるをえなくなる。ちょっとしんどい。でもその一方で、じぶんの経験をもうひとつ複雑なしかたで深めることができた。よし、なんとか間に合ったぞ、という苦いよろこびもある。齢をとると、そんなたぐいの読書も、けっこうしばしばあるのですよ」。「――ざまァ見ろ、こんな読書、若い諸君にはゼッタイにできないだろう。齢をとったおかげで、たまにそんなふうに感じることがある。ふと思い立って、むかし愛読した本を読みなおしたときとかね」。「おおくの老人たちが日々、大小の『記憶の裏切り』とつきあいながら生きている。私だっておなじ。裏切りと遊びたわむれ、それをたのしむのも、老人読書にゆるされた数すくない特権のひとつなのである」。これらの言葉に、老人読書の醍醐味が上手く表現されている。