法然は、なぜ、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで極楽往生できるなどと言い出したのか・・・【情熱の本箱(337)】
『法然の編集力』(松岡正剛著、NHK出版)は、私の長年の疑問――なぜ、法然は、修行しなくても、「南無阿弥陀仏」という念仏を称えるだけで極楽往生できるなどという安易な方法を言い出したのかという疑問に、明快直截に答えてくれた。
「ただ一心に『南無阿弥陀仏』と称えれば、往生が約束される――。法然の『専修念仏』の教えを一言でまとめれば、このようになります。心して『南無阿弥陀仏』と言えば極楽に行ける。ほかのことはせずとも、ひたすらそうしなさい。法然はそう教えたわけです」。
親鸞の有名な「悪人正機説」は、もともと法然が言い出したものであるとの指摘には、正直言って、驚かされた。そして、巻末の松岡正剛との対談の中で、町田宗鳳が、「勘違いされている方も多いようですが、悪人正機説における『悪人』というのは、何か倫理的に悪いことをした人という意味ではありません。自分の中の『悪』に気がついた人のことを『悪人』というのです」と語っているが、この「悪人正機説」の簡にして要を得た説明には脱帽だ。
著者は、法然が経典を渉猟して、どんな凡夫であろうと可能な信仰の方法を伝えようとしたプロセスを、「編集」と位置づけている。この編集によって、「悟りの仏教」から「救いの仏教」への切り替えを実現することができたというのだ。そして、後進への影響の大きさを強調している。「弟子の親鸞は、法然の『編集』に同調するようにして、よりピュアな言説で説得力を増すことができました。法然と師弟関係にはありませんが、栄西、道元、日蓮たちも同様です。先行して日本仏教の『編集』を試みた人物がいたからこそ、後続に思想のうねりがおきたと見るべきなのです」。法然の「念仏」を選択するという決断が、日本の仏教史を大きく変えることになったというのである。
「法然という人はきわめて編集的にインターフェイスする能力にすぐれていた、ということです。そうでなければ、専修念仏という革新には至らなかったでしょうし、浄土宗の根本聖典たる『選択本願念仏集』は成立しなかったと思います」。
法然の際立った編集力だけでなく、その読書力も高く評価されている。「目次というのは著者や編集者によって一冊のコンテンツを要約再構成したもので、その本のエキスが並んでいます。『目次読書法』はその目次をじっくり眺め、いろいろのことを想像し、そのうえで本文に一気に入っていくという方法です。もし法然がそのように経典群を読んでいたのだとしたら、法然の時代での本の読み方として、とりわけ経典の読み方としては、たいへん画期的です。・・・法然はたんなる多読の読書家ではなく、自分のなかに多重な網目をおこしながら本を読む人でした。その出発点は、必ず篇目にありました。のちに法然は膨大な教義や修行のなかから『念仏』ひとつを選び取るわけですが、それは『篇目を見て大意をとりなり』の読書法で鍛えられた、法然の縮約力やスクリーニング力によっているところが大きかったのだと思います」。私事に亘るが、私も、長年、「目次読書法」を実践している。
法然の念仏仏教の核心に止まらず、法然の生涯についても理解を深めることができるよう、「絵伝と写真が語る法然ドラマ」が用意されている。