ゴキブリやシロアリがいなかったら、人類の進化はなかったという仮説・・・【情熱の本箱(152)】
『昆虫は最強の生物である――4億年の進化がもたらした驚異の生存戦略』(スコット・リチャード・ショー著、藤原多伽夫訳、河出書房新社)は、生物の進化史において恐竜や哺乳類、人類ばかりが持て囃される風潮に対する、昆虫学者の異議申し立て書である。
「昆虫学者としての特異な視点で見れば、哺乳類に関する最近の歴史は、何億年にも及ぶ昆虫の奥深い歴史からすれば、取るに足らないように思えるが、ここで私の観点から哺乳類の物語を凝縮して伝えておこう。白亜紀末に恐竜を絶滅させた小惑星衝突による塵が収まり、地球が生物学的なリズムを取り戻したある日、ネズミに似たある幸運な――そして昆虫を食べる――哺乳類が、心地よい落ち葉の中に身をうずめて、幼虫を探していた。地球上に出現してから1億5000万年ほど経ってようやく、恐竜に食べられない日々を過ごせるようになった。恐竜の呪縛から解き放たれると、乳首から乳を出し、体が毛皮で覆われた小さな齧歯類が一気に数を増やした。そのなかの一部が樹上にすむように進化した。それはキツネザルに似た初期の霊長類で、引き続き昆虫を食べていたものの、一部は食性の幅を広げて植物の果実なども食べるようになった。以後数千万年にわたって、私たちの祖先は木から木へ移りながら昆虫と植物をかじっていたが、中新世後期に当たる1200万年前から500万年前になると、東アフリカの気候が変化した。化石として残った花粉の記録から、この地域では森の木々がだんだんまばらにしか生えなくなり、草原が広がっていった。樹上にすんでいた霊長類のなかには木を降りて、雑食の度合いを強めながら地上で食べ物を探し始めたものがいただろう。今も昆虫を食べる文化が多いことを考えれば、雑食性を強めた人類の祖先も同様に昆虫を食べていたと想定することができる。・・・私の意見では、人類の道具使用や優れた運動能力、器用な手の動きの起源、そして、その先にもたらされた文明の開花は、昆虫を食べる祖先たちの食性と深く関係している。ゴキブリが社会性を獲得してシロアリが出現しなければ、人類は存在しなかったかもしれない。シロアリが大量にいなかったとしたら、果たして霊長類は木から降りてきただろうか。降りてこなかったと、私は考える」。私たちが毛嫌いしているゴキブリやシロアリが人類の進化に果たした役割の大きさに驚く。
節足動物が動物としていち早く海を出て陸地の隅々まで進出したこと、外骨格や6本脚の利点、甲虫やハチの多様性などを挙げながら、著者は、昆虫が地球を支配していると考える科学的な根拠を示し、昆虫を含めた節足動物の繁栄を称える。本書では、昆虫が誕生して地上に君臨するまでの歴史が丁寧に辿られている。
海に昆虫がいないのはなぜかという質問に、著者はこう答えている。「陸地で繁栄している生物群のなかで最も豊かな多様性を誇るグループが実質的に海に生息していないのは、一見すると不思議だ。淡水の環境にすむ昆虫種は多くいるが、海域には昆虫はすんでいない。生命が海で進化したと考えることに慣れてしまうと、昆虫などの動物界の重要なグループが陸地で進化したということを忘れがちになる。昆虫が出現する頃には、海の生態系ではニッチがほかの生物によってすでに占有されていた。幾度も起きた大量絶滅のたびに海の生物群は大打撃を受けたものの、決して壊滅はせず、生き残った海の生物は昆虫が海の生態系に適応して入り込む前に、再び居場所を確保することができた。昆虫のほうも、すでに競争の激しかった海の環境にわざわざ移動する必要がなかった。陸地で占有されていない新たなニッチにいち早く適応することによって、昆虫は繁栄したのだ」。
カゲロウは原初の翅を持った現生の昆虫としては最古の部類に入るという。「カゲロウが太古の湿地の上を舞い始めた頃、空中はまだ自由なフロンティアだった。空中まで追いかけてくる鳥やほかの脊椎動物はいなかったのだ。しかし、石炭紀の淡水域には、顎のない魚類や両生類が数多く生息していた。産卵のために小川や池に戻ってきたカゲロウは、多くが捕食されただろう。だからこの頃でさえも、捕食者を寄せつけずに交尾相手を見つけるために大群でいっせいに飛び立つ戦略が、自然淘汰で有利だったはずだ。石炭紀のカゲロウも繁殖のために大きな群れをなして空中でダンスしていたのだと、私は想像してみたい」。
当初は慎ましく暮らしていた甲虫(コウチュウ目<もく>)が、地球は「甲虫の惑星」だと呼ばれるほど繁栄したのはなぜか。「飛翔して拡散できる強みを維持しながら、究極の鎧を発達させたのは甲虫だけである。甲虫の前翅は『翅鞘』と呼ばれる硬い殻になっていて、使わないときには後翅を覆っている。後翅は広げると前翅よりも大きくなり、飛翔する力を生むのはこの大きな後翅だけだ。これは珍しい特徴で、殻のような前翅は外側に広げられ、グライダーのように揚力だけを生む。・・・甲虫はあらゆる生き物のなかでもいち早く、木と菌類を混ぜることによってリグニンとセルロースを消化できるようになった」。
社会性昆虫が繁殖力を有しないワーカーを多数存在させるという進化を遂げたのはなぜか。「働きバチや働きアリに繁殖力がなければ、これらは次の世代に向けて子孫を残せない。他者の子の世話ばかりして自分の子を残さない生き物がいるのはなぜか? この一見手ごわい難題を説明できそうな答えの一つは、『血縁淘汰説』と呼ばれる仮説だ。無精卵から半数性(ゲノムを1セット持つこと)の雄が生まれ、有精卵から倍数性(ゲノムを何セットか持つこと)の雌が生まれるというハチ目の繁殖法を遺伝子に注目して考えてみると、興味深い事実が浮かび上がってくる。アリやハチの場合、姉妹どうしで共通の遺伝子が75%あるのに対し、自分の娘と共通の遺伝子は50%しかない。たとえば、働きアリの雌が自分の卵巣を発達させて交尾し、自分の子を産むとしたら、娘のそれぞれと共通の遺伝子は平均して50%となるが、自分の母親の娘(姉妹の働きアリ)の世話をする場合は、母親と父親が同じであるため、自分と共通の遺伝子が平均して75%ある個体の世話をすることになるのだ。不思議に思うかもしれないが、ハチ目が数多くの社会をつくって繁栄した理由がこれで説明できるかもしれない」。
「白亜紀後期の恐竜は、ハチやアリによる『虫刺され』に悩まされていたに違いない」。
「(小惑星の地球衝突によって)白亜紀末に姿を消した昆虫(および植物)もあるにはあったが、ペルム紀の大量絶滅と異なるのは、昆虫のなかで失われた目は一つもなかったということである。種の数はある程度減ったものの、昆虫の多様性はその後数百万年かけて再び高まっていった。現代の自然界をざっと見渡すだけで、昆虫や被子植物、鳥類、さらにはネズミのような小型の哺乳類(人類はさいわいにもそこから進化した)が小惑星の衝突を乗り切ったことがわかる。史上まれに見る規模の大激変でさえも、生命は驚くほどたくましく、目覚ましい回復力を見せた。体が小さくて6本脚ならなおさらだ」。
昆虫を主役に据えて生命や生物の進化の歴史を見直すことで、今まで気づかなかった多くの歴史的事実がくっきりと見えてくることを、本書が教えてくれた。