榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

「私は考える、だから私は在る」は、デカルトが言い出しっぺではなかった・・・【情熱の本箱(387)】

【ほんばこや 2021年11月23日号】 情熱の本箱(387)

デカルトはそんなこと言ってない』(ドゥニ・カンブシュネル著、津崎良典訳、晶文社)は、デカルトが主張したと見做されている21項目について、実証的に論じている。

とりわけ興味深いのは、「学校で教わることはどれも役に立たない」、「『私は考える、だから私は在る』というのは大発見である」、「人間の精神は、思考するのに身体を必要としない」の3項目です。

●学校で教わることはどれも役に立たない――
「若いときのデカルトは確かに、この学院で学び教えられることの中身はいずれも人生にこの上なく役立つと言い聞かされていた。然り。のちに幻滅もした。それもまた然り。だが、学院での勉学に不満があったわけでは決してない。まして、役立たずなどと一言も述べていない。ただ、それ自体で見れば、言われていたほどは役に立たないことが分かった、というだけである。つまり、確実な学問と安全な行動に資する真の原理を教えてはくれなかった――本人曰く、それを期待していたが――ということである。とはいえこの学院での勉学は少なくとも、新しいタイプの真理を発見したいという思いをデカルトの精神のうちに掻き立てた。そのための手段を彼に与えることはおそらくなかったが、真理に一定の形式を付与し、また説明するための手段は確かに与え授けもした。まさしく『方法序説』末尾ではっきりと述べられているとおりである」。

●「私は考える、だから私は在る」というのは大発見である――
「この考えに重きが置かれるからといって、当の考えの持ち主がそこから距離をとるのを妨げられるわけではない、ということになる。しかもこの距離は、単に振り返って眺めるための反省的なものではなく、ある意味で批判的な眼差しを注ぐためのものである。なるほど、私は考える、だから私は在るというのは前代未聞の考えかという問いに、でカルトは、もちろん違うと答える。・・・デカルトは、すでに聖アウグスティヌス(354~430年)がこれと同じ考えを似た表現で述べていることを知っている。あるいは忘れているとしても、指摘されれば、よろこんでアウグスティヌスのことを認めるだろう。このような考えは、強力な懐疑理由にもびくともしないがゆえに、中世の思想家や近代の幾人かによって、本当に特別なものとして前景に押し出されてきたからである。つまり、極り文句のようなものなのである。・・・しかし、この古びた考えのうちに新しい哲学の第一原理を見出しえたのはデカルトただ一人であったことは事実である。アウグスティヌスにも彼の後継者たちにもそのようなことはできなかった」。

●人間に精神は、思考するのに身体を必要としない――
「私たちは、身体抜きの思考というものを経験したことがありません。そしてデカルトはつねに、経験にできるだけ定位しようとしていましたから、人間の精神は思考するのに身体を必要としないという一文は、デカルトの言いそうなことではない、ということになるのです」。

こういう形のデカルト論、哲学本があってもいいんじゃない。