榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

女中ヘレナとの性的関係が、ルネ・デカルトに与えた影響とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2433)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年12月15日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2433)

イヌビワ(写真1、2)、イチョウ(写真3、4)、ドウダンツツジ(写真4)、ノムラモミジ(写真5、6)、イロハモミジ(写真7~13)の黄葉、紅葉を楽しみました。

閑話休題、『死にたいのに死ねないので本を読む――絶望するあなたのための読書案内』(吉田隼人著、草思社)の中で、著者が、「デカルトが関係をもった女中ヘレナとその娘フランシーヌについてもう少しアカデミックなアプローチを望まれる向きには」『デカルトの青春――思想と実生活』(竹田篤司著、勁草書房)を薦めているので、早速、本書を手にしました。

「周知のことだが(ルネ・)デカルトは、書斎にこもった陰気な哲人ではない。それどころか彼は書物が大きらいだった。・・・孤独な生活をたのしむ一方、ダンディーな服装でパリの社交界を濶歩した。とおもえば、たちまち姿をくらまし、旅行者や兵士になってヨーロッパじゅうをかけめぐった。非のうちどころのない社交家で、婦人に対しては手紙のなかでまで愛想がいい。さる令嬢をめぐり。コルネイユもどきのせりふを口ずさんで恋がたきと決闘したこともある。むろん勝ったのはデカルトだ、彼は剣豪でもあったのだから。『孤独な生活にひたりきっていらっしゃるくせに、社交界の紳士にふさわしい美徳をちっともおなくしではございませんのね』と、のちにある婦人が彼に書きおくっている。当時のしきたりだったラテン語をやめ、フランス語で『方法序説』を書いたのも、『ご婦人がたにもなにかを分っていただきたいため』だった。要するに彼は、最も哲学者らしからぬ哲学者だったのである」。

「デカルトをめぐる女性といえば、まっさきに思いおこされるのはエリザベト王女とクリスティーナ女王のことである。・・・ところでデカルトは一生結婚しなかった。蒲柳の質だったことにもよるだろうが、理由ははっきりわからない。もっとも彼自身、『この世でいちばん見つかりにくいものは美人と良書と欠点なき説教師』だとか、『真理の美にならぶ美はない』とか言っているが、これは彼おとくいのよたである」。

「さて彼は結婚はしなかったが、子供はつくった。つまり、オランダにいたころ一時、『情婦』をもったのである。相手の女ヘレナと知りあったのは36、7歳のころだ。女中だといわれるが、女中としてやとったあと、手を出したものだろうか。とにかく2、3年後には、女の児が生まれている。彼はこの児にフランシーヌと名づけてやったが、これは初恋の相手フランソワーズを思いだしたものだろう(フランシーヌとフランソワーズとは同じ)。ところで、彼がヘレナに妊娠させた当夜の日付(1634年10月15日、日曜)を友人におくめんもなく教えているからおもしろい。彼の性生活の一端も知れようというものである。だが親子水いらずの生活も、フランシーヌが5歳のとき猩紅熱で死んだため、ご破算となった。ヘレナのその後の消息は不明である。さてこの情事は、もちろん大きなスキャンダルだった。反対派にとっては、願ってもないねただった。デカルトも内心大いに困っただろうが、うわべは『聖人君子にはなりたくなかった』とか『わたしにも若いころがあったのだ』とか言って居なおっていた。ただし親しい友人に対しては、あんなことをしてしまったが、『神様が救いあげてくださった』と本音をはいている」。

「ところで、この情事が彼の精神におよぼした意味なのだが、『哲学者一生に一度のあやまち』として片づけてしまう通説を排し、ぼくはこれに大きな意義をあたえたい。『ほとんど一生にわたり最も珍奇な解剖まで手がけてきた男にとって、独身者の徳をきびしく守るというのはつらいことだった』。彼の最も古い伝記作者バイエはこう語っているが、これは意外にふかくこの情事の核心をついた言葉なのだ。当時、彼の最もこのんだのは動物の解剖であり、また女の解剖に立ちあったこともある。ひとり密室にこもって解剖にふけりながら女体への妄想に心たかぶらせている彼の姿を、想いうかべることもできよう。そのような彼の心中に、『女』は倫理ではなく生理の対象として現われたのではなかったか。そしてこのような意識のなかでは、『セックス』はその仮りの衣を捨てさり、純粋に人間を『脅かすもの』としてわれわれのまえに現われるのだ。デカルトはただの明るい合理主義者ではない。その発想の深部には、どすぐろい暗黒地帯がひそんでいる。彼がヘレナとのこの情事を通じてまさぐり、確かめ得たものは、じつに彼自身のもつこのような暗黒地帯ではなかったのか。でなれれば、この情事の末期に書かれた『メディタション』のなかで、邪悪なものから自分を『守るもの』として神の存在を語ったことに、いったいなんの意味があるだろう?」、

この著者は、いささかデカルトに厳し過ぎると感じるのは、私だけでしょうか。