榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

私たちは、生きていさえすればいいのよ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2121)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年2月2日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2121)

マンサク(写真1~3)、カワヅザクラ(写真4)、ナノハナ(セイヨウアブラナ。写真5、6)が咲き始めました。いい香りがするわよと、我が家の庭師(女房)に言われ、庭の片隅でニホンズイセン(写真8)が咲いているのに気がつきました。因みに、本日の歩数は13.318でした。

閑話休題、太宰治の最晩年の短篇集『ヴィヨンの妻』(太宰治著、新潮文庫)に収められている『ヴィヨンの妻』は、「四国の或る殿様の別家の、大谷男爵の次男で、いまは不身持のため勘当せられているが」、「頭がよくて、天才」で「二十一で本を書いて、それが石川啄木という大天才の書いた本よりも、もっと上手で、それからまた十何冊だかの本を書いて、としは若いけれども、日本一の大詩人」、「おまけに大学者で、学習院から一高、帝大とすすんで、ドイツ語フランス語」が堪能と吹聴している夫の妻である「私」の語りという形が採られています。

この30歳の夫というのは、碌な稼ぎもないのに、酒好きで、女癖が悪く、何日も家に帰ってこない、挙げ句の果てに、馴染の料理屋の金を盗むという、何ともしょうがない男なのだが、「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生まれた時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」などと宣います。

こんな夫なのに、26歳の妻は、3歳の男児を抱えながら、明るく、健気に支え続けます。

この小説は、表面的には、駄目男と出来た女の物語のように見えるが、私が気になったのは、夫の留守中の深夜、酔って押しかけてきた若い男を泊めてしまった時の、「そうして、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。その日も私は、うわべは、やはり同じ様に、坊やを背負って、お店の勤めに出かけました」という告白です。若い男と性的関係を持ってしまったというのです。

「夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、『やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当っていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです』。私は格別うれしくもなく、『人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ』と言いました」と、結ばれています。この妻の最後の台詞が書きたくて、この作品を構想したのなら、太宰というのは、どうしてどうして油断ならない作家です。