榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

平安時代の、南北朝時代の、室町時代の貴族の恋愛事情・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2650)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年7月19日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2650)

ウイキョウ(フェンネル)の花にキアシナガバチがやって来ました(写真1、2)。ホウセンカ(写真3、4)、カンナ(写真5)、トケイソウ(写真6、7)、オオキンケイギク(写真8)、キキョウ(写真9、10)、シマトネリコ(写真11、12)、ケムリノキ(スモークツリー。写真13、14)、ハス(写真15)が咲いています。

閑話休題、エッセイ集『春夏秋冬 恋よこい』(林望著、春陽堂書店)で、とりわけ興味深いのは、●平安時代の貴族の恋愛、●南北朝時代の貴族の恋愛、●室町時代の貴族の恋愛――についての考察です。

●平安時代――
「むかしは、男は夜にならないと通って来なかった。明るい内に通って来るなどというのはルールに違反しているのである。いろいろな人に見咎められて、恋の邪魔立てが入るからである。男は、すっかり暗くなってから、こっそりひっそりと、女の閨に忍んでくるのである。それが『恋の約束ごと』であった。そうして、一番鶏が鳴く『あかつき』時分には、そっと女の閨を辞して、帰ってゆくことになっていた。明るくなるまで女の許に居続けたりするのは、しくじりのもとであり、女からも軽んじられるのであった。いっぽうまた、女は、暗くなってからそっと忍んでくる男を、宵の口からじっと待っている。この『待つこと』の多い時間が『待宵』という言葉に凝縮している。そうして、やがて宵をすぎて真っ暗な『夜』になる時分に、男は、そっと『おとずれて』くる。つまり、戸口のあたりで、トントンと小さな音をたてたり、カサコソと御簾を揺らしてみたりというような音の合図をして、女に来訪を知らせたのであろう。それが『音づれ=訪れ』ということであった。それから、女の閨に男が入ってくる。・・・なにしろ、女の閨に入った以上は、肉体的な交わりなくしては恋は成立しない。女もむろんそれを待ち焦がれている。しかるに、一儀が済んで、どこかで鶏が鳴く暁の時分になると、男は、さあ帰らなくてはならないとそわそわし始める。女は、できるだけ帰したくない、ずっと優しく抱いていてほしい、けれども、露骨に顔が見えるほど明るくなるまで引き留めては、浮き名がたつ。それは女の不見識でもある。女の恋の気持ちは、男のそれにくらべると遥かに複雑に屈折しているのである。これは男女のセクシュアリティの違いにもよるのだが。だから、女は、心の名残惜しい思いと裏腹に、男を起こして帰す算段をするのである。どうおそくても、男は、あけぼのの時間までには退散しなくてはならぬ。そうして、女は性愛の後のアンニュイを残しつつ閨に沈み、ほのぼのと朝があけてくる。これがあけぼの。そこから、しばらくすると、お付きの女房やら下仕えの女やらが起きてきて、だんだんと人気(ひとけ)が感じられるようになる。・・・『枕草子』は、徹頭徹尾女の視線で書かれているので、いわば、冒頭の『春はあけぼの』というのは、男が恋の閨から帰って行った、そんな時間に、女がまだ閨にあって、ほんのりと空が明るくなって行く外面の景物をそっと眺めやっているという気分がこもっているように感じられる」。

●南北朝時代――
「(北朝の歌人たちの)一派の後ろ盾であった伏見天皇の中宮は永福門院という人で、京極派の代表的歌人の一人であった。永福門院には家集というものが残されていないが、『永福門院百番御自歌合』という作品が残されている。このなかに、<みじか夜はさし入月の影をこめて枕の山ははや明にけり>。・・・表面的な意味は『夏の短夜に、ふと目覚めると窓から射し入ってくる月の光までが明るさを添えて、枕辺から見る山のあたりははや夜が明けてしまったな』というほどのことである。・・・さらでも短い夏の夜、ましてや恋人と過ごす一夜はあっという間に明ける。明けて欲しくないのに、いまはまた月の光までが憎らしくも皓々と射し込んできて、枕辺はもう明け方のように明るくなってしまった・・・と、怨めしく外を眺めやると枕に近々と感じられるあの東山のあたりは、もうすっかり明けてしまっていた。と、こういう歌の背後には、やはり夏の逢瀬、明けて欲しくない女心、でも恋人と共寝をするとほんとにあっという間に夜の時間は過ぎてしまって、という歎きの思いが、どこかしめやかに響いているように感じられる。露骨に恋の歌として詠むのでなくて、一見すると単なる季節の叙景歌のように見えるのだが、その実、深いところでは、伝統的な恋の情調を込めた短夜を詠じていると見なくは、こういう歌はつまらない」。

●室町時代――
「『閑吟集』は、中世室町時代の永正15(1518)年に成立した歌謡集であって、作者はよく分かっていない。・・・このなかに、次のような小唄がある。<たゞおいて霜にうたせよ、夜ふけて来たがにくひ程に>――そこにそうやって、ただ待たせておいて霜に打たせてやれ こんなに夜更けになったからやって来たのが憎いから。男は夜遅くなると女の閨に通って来る。これはもう千古不易の恋の原理であった。けれども、それがあまりに遅くなってしまうと、せっかく来てくれても、二人で睦まじく閨事をして過ごす時間がなくなってしまう。女は、それがくやしい。もしほんとうに、男が自分を愛おしく思ってくれるのなら、夜になったとたんにできるだけ早く通って来てくれて、それで暁のぎりぎりまで一緒にいてほしい。しかし、この男は、夜更けまで女を待たせて、なかなかやってこなかった。こうなると、女は疑心暗鬼になって、『もしや、他の女のところへ先に立ち回っているのではあるまいか』と思ったり、『自分のことをもう忘れてしまったのではなかろうか』と悲観したりして、待つのは非常に辛い。いわゆる『待つ身の辛さ』という心である。・・・こんなに遅くにやってきたんだから、外に待たせて霜にでも当ててやろうぞ、と思っている女心。その男と女の我慢比べのような恋の場面が、まことに面白く、生き生きと感じられるではないか。昔の女たちだって、ただ泣きながらおとなしく待っているばかりでもなかったのである」。

林望という人は、どうして、こんなに女心がよく分かるのでしょうか。本書のおかげで、往時の恋人たちが身近に感じられるようになりました。