私たちは、なぜ古典を読むのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1843)】
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閑話休題、『なぜ古典を読むのか』(イタロ・カルヴィーノ著、須賀敦子訳、河出文庫)では、世界の古典的文学作品が取り上げられています。
なぜ古典を読むのかという問いに、著者はこう答えています。
「古典を読むことには、それ独特の味わい、独特の意味がある。おとなになってから読むと、若いときにくらべて、より多くの細部や話の段階を味わうことができる(はずだ)」。
「古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資産だ」。
「古典とは、忘れられないものとしてはっきり記憶に残るときも、記憶の襞のなかで、集団に属する無意識、あるいは個人の無意識などという擬態をよそおって潜んでいるときも、これを読むものにとくべつな影響をおよぼす書物をいう」。
「古典とは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見である書物である」。
「古典は、読んだとき、それについて自分がそれまでに抱いていたイメージとあまりにかけ離れているので、びっくりする、そんな書物である」。
「古典は義務とか尊敬とかのために読むものではなくて、好きで読むものだ。・・・利害をはなれた読書のなかでこそ、私たちは『自分だけ』のものになる本に出会うことができる」。
「『自分だけ』の古典とは、自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨に。もしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある」。
バルザックを論じた中で引用されているチェザレ・パヴェーゼの日記の一節が印象に残りました。<バルザックは、神秘をはぐくむ巣として大都会を発見し、彼がたえずとぎすました感覚は、好奇心だ。それこそが彼のミューズだ。彼は喜劇的でも悲劇的でもなく、ひたすら好奇心いっぱいである。ものごとの絡み合うなかで、彼はまるで匂いを嗅ぎながらといったように話を進め、なぞを予感し、機械の部品ひとつひとつを、するどい、活きのいい、勝ちほこる快楽をもって、分解していく。まるで初めて会う人物に近よるように、ものを見る。彼は、相手が希有なオブジェであるかのように、ためつすがめつし、これらを描写し、彫りあげ、定義し、説明し、その特異さのすべてを外に抽出して。驚きを保証する>。私がバルザックを大好きな理由が分かりました。彼と私に共通するもの、それは好奇心だったのです。
一方、ヘミングウェイに対しては辛口です。「私にとって――私にかぎらず、ずいぶん多くの人、たとえば、私の同年配、同世代の人たちにとっても――、ヘミングウェイが神様だった時代があった。・・・やがて私たちは、それらの限界や欠点を見抜くことになる。私が文学の道をおぼつかなく歩みはじめたころに賞讃を惜しまなかった彼の詩的世界や文体が、すこしずつ狭いものに見えはじめ、マンネリズムに陥りやすいものであることがわかり、彼の生き方――そして人生哲学――も、なにやらうさんくさく思え出し、はては、それらに対して反感や不快感をさえおぼえるようになった。だが、結論からいってしまうと、あれから十年余を経たいま、わがヘミングウェイ『修行』をふりかえったとき、差引残高は黒字といってよいだろう。『よお、おれはだまされなかったぜ、おやじ』。彼の文体をまねるのはこれが最後としても、私はこう彼にいってやりたい。『あんたは、ぼくのわるい教師になりそこねたぞ』」。
「解説」で池澤夏樹が、こう書いているのには驚きました。「ヘミングウェイが『神様だった時代があった』とカルヴィーノは書く。その先がすごい(=辛口だ)。・・・カルヴィーノより更に22年遅れて生まれたぼくにとってもヘミングウェイの印象は正にこのとおりだった。『武器よさらば』から入って、『日はまた昇る』に戻り、短篇の一つ一つに感動し、『誰がために鐘は鳴る』で気持ちが離れてしまって後は低迷、最後に『老人と海』でぐっと持ち直した。カルヴィーノはこの体験をとてもうまく整理してくれた。そしてぼくにとってもヘミングウェイの『差引残高は黒字』だと思う」。池澤と同年代の私も、ヘミングウェイ作品はほとんど読んだが、私の場合は、最初から最後まで、ヘミングウェイの小説はどうも好きになれませんでした。その原因をカルヴィーノが教えてくれました。