榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

一人の作者と一人の編集者の出会いが出版社の命運を決する・・・【続・リーダーのための読書論(19)】

【ほぼ日刊メディカルビジネス情報源 2012年9月26日号】 続・リーダーのための読書論(19)

出版社の運命

出版社の運命を決めた一冊の本』(塩澤実信著、出版メディアパル)は、一人の作者と一人の編集者の思わぬ出会いが、その出版社のみならず、作品、作者、編集者のその後の運命も大きく変えてしまった経緯を語る証言集である。

この意味から、執筆、編集、出版、書籍販売に関わる人たちに興味深い本であることは当然であるが、MR活動にも、さまざまなヒントを与えてくれることだろう。

岩波茂雄と夏目漱石

岩波書店は、1913(大正2)年、岩波茂雄によって、東京・神田のしもた屋の一隅で、古本屋として出発した。親友・安倍安成を通して夏目漱石に近づいた岩波は、当時は微々たる出版社に過ぎなかった岩波書店に『こころ』を出版させてほしいと頼み込んだばかりか、大金の融通まで依頼したのである。この漱石との関係と、「着実に百姓のような地道さと丹精をこめて岩波書店の経営に当たった」岩波の揺るがぬ信念と努力が、岩波書店を一流出版社へと押し上げたのである。

早川清とアガサ・クリスティ

敗戦後、33歳の早川清は早川書房を立ち上げる。やがて、経営危機を乗り切るため、当時、未開拓のフィールドであった海外のミステリの翻訳出版の世界に乗り出す。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を初めとするハヤカワ・ミステリ・シリーズは、「日本のミステリ・ファンを洗脳し、隠微な世界から解放して、ミステリの本来の知的遊びの世界へ惹き入れる役割を果たしていったのである」。その後、早川書房は、ミステリ以外の上質な海外作品の翻訳出版にも手を広げていく。

佐藤亮一と週刊新潮

1956(昭和31)年に、新潮社の創業者の孫・佐藤亮一が週刊新潮を創刊したが、当時、週刊誌の世界を牛耳っていた新聞社系週刊誌に対する無謀とも見える挑戦であった。文芸出版社として発展してきた新潮社の「新聞系週刊誌の何から何まで逆手を取る基本方針は、表紙からはじまって、グラビア特集の組み方、カコミ記事に至るまで、まったく新しい視点、角度で検討」したものであった。「新聞の片隅のベタ記事から、がっちりした特集記事を掘り起こしたり、知りつくされたニュースの中から、同業他誌の見落としていた面をすくい上げてくる。その記事に、既知の事実を引っ繰り返すほどのインパクトが秘められていたりする」といった得意技は、現在も健在である。

竹村一と五味川純平

敗戦直後、竹村一は、京都の古本屋「三一書房」の2階で、三一書房を創業した。竹村のもとに五味川純平という無名の新人の1000枚近い長篇『人間の条件』の原稿が持ち込まれたのは、1956年のことであった。後に五味川のアシスタントを10年,務めた沢地久枝は、「五味川さんが戦争を書きつづけるのも、愚かしい政治によって虫ケラのように生命を奪った人間たちへの怒り、消耗品でしかなかった人間たちの怒りがあるからです。それを小説という形で代弁しているわけです。同世代人の怒りは代弁出来ても、五味川さん自身は、中国人特殊工人の処刑に立ちあい、それをどうすることも出来なかった痛みから、生涯、自由になれないでしょうね」と語っている。全6巻の『人間の条件』は文壇からは無視され続けたが、読者の圧倒的な支持を得て、すさまじい売れ行きを示し、ロングセラーとなって、傾いていた三一書房の経営を見事に立て直したのである。

神吉晴夫と松本清張

光文社の神吉晴夫は、松本清張の『点と線』の雑誌連載の第1回について、「主人公は、私たちと同じ時代の今日に生きている、ごくありふれた普通の人間である。私たちの身近にある、あなたや私の日常生活に、とつぜん、隙間風のようにしのび込んでくる犯罪、人間の心理のかくれた深層にひそむ意識から起こる犯罪・・・私だって人を殺すかもしれない」と、感動を述べている。「この新作家は、多くの読者をひきつけるにちがいない」と直感した神吉は、早速、清張邸へすっ飛んで行き、光文社からの出版を申し出たのである。「苦しい半生の生活体験を通して、社会の矛盾に強い憤りをもち、半面、めぐまれない疎外されたものにあたたかい心をよせる」清張という不世出の作家を得て、光文社は急成長を遂げるのである。