いつかやって来る「死」について、おたおたしながら考える――死んだ後に二度と生まれ変わってこないことを願う宗教がある――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その38)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(125)】
●『善く死ぬための身体論』(内田樹・成瀬雅春著、集英社新書)
対談集『善く死ぬための身体論』(内田樹・成瀬雅春著、集英社新書)では、不思議な考え方をする宗教について語り合われている。
「●成瀬=本当の意味の『不死』は『自分が死なない』ということではなくて、『死んだ後に生まれてこない』。それが不死なんです。●内田=輪廻しないのが不死なんですか。●成瀬=そうです。ヒンドゥー教の考えには解脱願望があって、『生まれ変わりしたくない』というのがベースにあるわけです。生まれ変わらないということは、もう一回死なないで済むということです。●内田=死は一回だけ。●成瀬=それが『本当の不死』なんです。今生で100年、200年生きたいというのではなくて、ヒンドゥー教では、今生は死ぬだろうけど、その後、ひどいところに生まれ変わって、その上また死ぬのは悲惨だ。だから、二度と死にたくない。それが解脱ということで、『解脱を得ることは不死を得た』ということになるのです」。
「●成瀬=死に対してどのくらい執着、不安、恐怖が大きいか小さいか。解脱感というのは、そういう執着からどんどん離れていくということです。今持っている『財産を手放したくない』ということは死にたくないということです。例えば、恋人がいるとか、会社の地位を手放したくない、家族からも離れたくないという思いがあると、『まだ死にたくない』となる。だけど、そういう執着からだんだん離れていくと、今この瞬間に人生が終わっても悔いが残らないし、未練はないのです。この瞬間に未練がないような生き方というのはベストな生き方だと思いますね。●内田=それ、いいですね、今この瞬間に人生が終わっても悔いが残らないように生きるというのは、僕にとっても理想です」。
私も、人生は一度きり、だから、悔いが残らないように生きるという考え方に強い共感を覚える。
二人の対談は、宗教のアイディアに及んでいく。
「●内田=輪廻転生というアイディアそのものは人間を指南するものとしてはすぐれていると思います。現世で悪行を働くと来世でひどい目に遭う、あるいは前世で功徳を積んだおかげで現世でいいことに恵まれるというふうに考える、とりあえず今この生きている間くらいは人として正しく生きようという動機づけになりますからね。●成瀬=あまり悪いことをしないためのブレーキがかけられますからね。●内田=『功徳を積んでおけば来世でいいことがあるし、悪いことをすると来世で罰が下ります』という発想はちょっとシンプルすぎるかもしれませんけれど、人間の攻撃性や利己心を制御するという実際的な効果を考えると卓越したアイディアですよね」。
「●内田=だいたいよくできた思想体系は、『選ばれた少数向け』の部分と『一般大衆向け』の部分と二面があるんです。顕教と密教というか、『わかる人向け』の教理や行法と、『ふつうの人向け』の教えや戒律がある。ダブルスタンダードなんですけれど、もしかするとそれと同じでしょうか。●成瀬=おそらくそうでしょうね。●内田=全員に解脱をしろとは要求しない。●成瀬=ただ、僕らヨーガ行者は修行して解脱することをめざしていますが、一般民衆はそれがほとんど無理なのはわかるわけじゃないですか」。
「●内田=一般民衆向けと、少数の非常に厳しいレベルの高い修行をする人向けとふたつあって、どちらも救済される点では変わらないというのはユダヤ教もそうなんです。ユダヤ教の場合は、特に正統派の場合は、食事の戒律や服装の戒律や祭祀について儀礼が細かく決まっています。それをちゃんと守らないと救済されない。救済されるためには、これだけの戒律を守らなきゃいけない。でも、非ユダヤ教徒はそんなにたくさんの戒律を守らなくてもいいんです。7つの基本的な戒律、仏教でいう『不殺生戒』とか『不偸盗戒』というくらいの、人を殺さない、盗まない、嘘をつかない、くらいの基本的な戒律を守れば、非ユダヤ教徒は救済される。・・・この『二本立て』というのは成熟した宗教体系ではどこでもあるものじゃないかと思うんです。・・・日本でも、親鸞や日蓮の時から、そういう意味での宗教的な成熟が始まるんじゃないでしょうか。別に心から信仰がなくても、形だけでも『南無阿弥陀仏』とか『南無妙法蓮華経』を唱えていれば往生できるという教えが出てくるのは、その頃からですよね。これはいわば霊的な成熟過程には『難度の高いコース』と『ふつうの人用コース』ふたつのコースがあるけれど、どちらのコースを取っても、たどり着くところは同じですということですよね。その着想が卓越していたと思うんです」。
イエスとユダヤ教の関係が説明されている。「●内田=イエスはユダヤ人として生まれてきて、ユダヤ教文化の中にいて、自分自身もユダヤ教徒だと思っていて、みんなから『ラビ』と呼ばれていて、説教もシナゴーグでやっていたんですから。イエス自身は自分のことをユダヤ教内の改革派であって、当時のメインストリームであるサドカイ派やパリサイ派の人たちと論争していて、一神教信仰そのものを否定していたわけじゃない。イエス自身はユダヤ教内の教派論争をしているつもりだったけれど、後世の人たちはそれを宗教間の対立に置き換えてしまった」。
本書を読み終わるまでに、何度となく、目から鱗が落ちること、落ちること。