いつかやって来る「死」を、おたおたしながら考える(第8話)――死をストア派の哲人たち、そして、ストア派と対立したエピクロスはどう考えたのか・・・【続・独りよがりの読書論(48)】
死
哲学の最大のテーマは「死」であると考えている私は、『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち――セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス』(國方栄二著、中央公論新社)でも、やはり、「死」に注目してしまった。
エピクロス
「(エピクロスは)アテナイに戻って来て、前307/306年に哲学学校を開くことになる。彼の思想の系譜はデモクリトスにまで遡るのであるが、デモクリトスの弟子のナウシパネスという哲学者から原子論的な世界観を引き継いだ。後年、ローマの詩人のルクレティウスがエピクロスの原子論を詩の形式で実現した『事物の本性について』が今日にも伝えられている。エピクロスはアテナイの有名な外港であるペイライエウスとアテナイ市街との間に庭園を買って、そこに哲学の学園を作り、仲間たちと共同生活を送っている。当時は厳密な意味での市民は自由民と呼ばれた人たちだけを指したが、エピクロスは奴隷の身分の者にも参加を許し、当時としては珍しく女性が入園することもできた。これが後世において『エピクロスの園』と呼ばれた学園であった。エピクロスはこの哲学学校において著作にあけくれ、300巻ほどの作品を遺したが、残念ながらディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』が保存している3通の書簡などを除きすべて散佚した」。
「神に対して恐怖を抱いたり、死を恐れたりするのも無用なことだと言っている。死への恐怖を無用のことだとする議論は、彼の書簡の中に見出される。『メノイケウス宛ての書簡』であるが、その中に恐怖について述べた次の有名なくだりがある。<死はわれわれにとってなにものでもない。われわれが存在するときには、死はわれわれのところにはないし、死がわれわれのところにあるときには、われわれは存在しないからである>。一般にはエピクロスは『快楽主義』の哲学者として知られる。死についてくよくよ煩わしく考えるよりも、今の生を楽しく生きよという教えである」。著者は、ストア派と対立していたエピクロスの快楽主義は、いわゆる享楽主義とは程遠いものであることを強調している。
エピクテトス
著者は、ローマの哲学者の中で最も印象深い人物として、55年頃に生まれ、136年頃まで生きたと考えられる、解放奴隷のエピクテトスを挙げている。「エピクテトスが哲学に求めたのは、一言で言えば、『人はいかにして精神の自由を得ることができるか』という問いに尽きている。これはエピクテトスの奴隷としての境遇を思えば当然とも言えるだろう。奴隷は家財の一部であり、自由に売買され、気に入らなければ打擲を受け、それが死に至ることもあったからである」。
「人は哲学をすることで、外の世界からなにかを獲得するのではなく、むしろ自分の心を改革することになる。例えば、死に対する恐怖である。<人びとを不安にするのは、事柄ではなく、事柄についての思いである。例えば、死はなんら恐るべきものではなく、むしろ死は恐ろしいものだという死についての思い、これが恐ろしいものなのだ>」。ストア派のエピクテトスは、要は心の持ちようだと言うのである。
マルクス・アウレリウス
ストア派の哲人皇帝、マルクス・アウレリウスも死について語っている。「メメントー・モリー(死を忘れるな)の思想は、アウレリウスにおいても生きている。<万事につけて、今この世から立ち去ることもありうると考えておこない、語り、考えるようにせよ>と述べている。しかし、それは死が恐ろしいからではない。むしろ、人間の判断力が徐々に失われていくためである。<急がねばならない。死が刻々と間近に迫っているからだけではない。物事を洞察する力と対応の能力が停止してしまうからだ>」。
そして、死後の名声を期待することを、こう言って諫めている。<死後の名声に心をときめかす人は、次のことに気づいていない。その人のことを覚えている人自身もまた、それぞれがたちまちのうちに死んでしまうのだ。そして、その後に続く人もまた死んでしまって、記憶が松明の火のように付いては消えていくうちに、ついにはその記憶の全体が消え去ってしまうのだ>。