福沢諭吉の「痩我慢の説」、宗教観、「脱亜論」とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3062)】
バン(写真1、2)、チャバネセセリ(写真3)、モンキチョウ(写真4~6)、アオスジアゲハ(写真7)、ニホンカナヘビの幼体(写真8)をカメラに収めました。ミソハギ(写真9、10)、タマスダレ(ゼフィランサス・カンジダ。写真11、12)が咲いています。オギ(写真13)、パンパスグラス(シロガネヨシ。写真14、15)の穂が風に揺れています。
閑話休題、福沢諭吉というと、中学1年生の時、社会科の大森先生から読書会に誘われ、1年間かけて、福沢の『学問のすすめ』(岩波文庫)の原文を少しずつ読み進めていったことを、懐かしく思い出します。
『福沢諭吉 変貌する肖像――文明の先導者から文化人の象徴へ』(小川原正道著、ちくま新書)では、福沢の存命期から一万円札の肖像となるまでのおよそ100年間の福沢評価の変遷が辿られています。
とりわけ、個人的に興味深いのは、●福沢が勝海舟を批判した「痩我慢の説」、●福沢の実用的宗教観、●没後に問題視された福沢の「脱亜論」――の3つです。
●痩我慢の説
「福沢は、1891年に『痩我慢の説』を記し、戊辰戦争の際に勝が断行した江戸城無血開城を、厳しく批判した。勝は、旧幕府軍を率いて城を枕に討ち死にし、武士が伝統的に培ってきた『痩我慢の精神』を発揮すべきだったが、無抵抗で城を明け渡してその精神を損なったとして、こうした姿勢では国家の対外的独立を維持することはできない、と福沢は論じている」。
●宗教観
「福沢自身は特定の信仰をもたず、子どもの頃から迷信を嫌っていたことは有名である。その一方で、宗教がもつ道徳的感化力については、これを評価し、当初は浄土真宗をはじめとする仏教、続いてユニテリアンに代表されるキリスト教に期待し、晩年には、仏教でもキリスト教でも、民心を和らげるようにしてほしい、という宗教観に到達していく。あくまで、品行を維持するための手段として宗教を捉える、というプラグマティックな姿勢は変わらない」。「ユニテリアン」とは、神の単一性を主張し、イエスは神ではないとする、キリスト教の一派です。
●脱亜論
「1951年11月に『福沢研究』第6号に遠山茂樹が発表した『日清戦争と福沢諭吉――その歴史的起点について』で『強大文明国の植民地となることが、むしろ朝鮮人民の幸福――これは修辞上の誇張の言ではなく、日本の朝鮮侵略を主張する論の前提となっている』としてその一部を引用し、『アジアの一員としてアジアの興隆に尽すのではなく、アジアを脱し、アジア隣邦を犠牲にすることによって西洋列強と伍する小帝国主義になろうとする、日本のナショナリズムの悪しき伝統の中に、この類い稀な思想家も、<文明>の名においてとらえられていた』と解説を加える形で『発見』された。・・・以来、通史や新書などでも大陸侵略の先駆として位置付けられることで、その『悪名』が広く認知されていった。・・・『脱亜論』はもはや、福沢思想を代表するかのような状況になっている」。