江戸無血開城は、勝海舟・西郷隆盛会談の前に、山岡鉄舟・西郷会談で決定していた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3070)】
スイフヨウ(写真1~11)の花の色の変化を堪能しました(写真1、2は8:00、3、4は11:30、5、6は12:30、7、8は14:30、9~11は15:20に撮影)。我が家の向かいの市立小学校から子供たちの元気な声が聞こえてきます。教師に尋ねたところ、授業の一環で校庭の草地で昆虫採集をしているとのこと。ガのセスジスズメの幼虫(写真12)、ハラオカメコオロギあるいはモリオカメコオロギの雄と思われる個体(写真13)などが捕獲されています。除草剤、殺虫剤を使用しない我が家の庭では、爬虫綱としては、ニホンヤモリ、ニホンカナヘビ(写真14)、ヒガシニホントカゲが棲息しています。
閑話休題、『定説の検証 「江戸無血開城」の真実――西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟』(水野靖夫著、ブイツーソリューション)は、江戸無血開城が勝海舟と西郷隆盛の江戸の会談で決定したという定説に異を唱え、実は、その直前に駿府で行われた山岡鉄舟と西郷の会談で決定していたと、強硬に主張しています。
著者は、定説がはびこってしまった背景として、●勝が山岡を駿府に派遣した、●勝は徳川家の政治の最高責任者であった、●勝がアーネスト・サトウに、イギリス公使、ハリー・パークスから西郷に圧力をかけてもらうよう依頼した、●勝が火消しの頭・新門辰五郎に、市街に火を付けるよう依頼した――といった虚説・俗説が組み合わされて定着していったと指摘しています。これらの史料は存在しないというのです。
真実の江戸無血開城の経緯はこうだというのです。「西郷は、倒幕すなわち(徳川)慶喜追討のため、江戸に攻め上ったが、途中駿府に慶喜の命を受けた山岡鉄舟がやって来て談判となった。西郷は鉄舟の説得に応じ、江戸城明渡しと引き換えに、慶喜追討の撤回と徳川の家名存続に合意した。これが第1の『駿府談判』であり、ここに江戸攻撃は回避され、『無血開城』は実質決定したのである。しかし鉄舟にはしかるべき肩書がなかった。このときの鉄舟の肩書は『精鋭隊(慶喜の警護隊)頭』に過ぎなかった。そこで西郷は徳川方のしかるべき肩書のある人物に確認を取るべく江戸に向かった。一方徳川方としては、提示された降伏条件を多少なりとも緩和してもらうため嘆願した。それが勝海舟との会談、第2の『江戸嘆願』であった。つまり『駿府談判』の『事後処理』に過ぎない。しかし西郷は当時新政府の一番の実力者とはいえ、身分は一参謀に過ぎず、そのため朝命である慶喜討伐を撤回するには、上位者の決裁が必要であった。そこで慶喜追討軍の大総督・有栖川宮熾仁親王に決裁を仰ぐべく駿府まで戻ったが、有栖川宮もその権限はないとして、西郷を京都まで帰らせた。西郷は京都の朝議において、対徳川強硬派を説得し慶喜追討撤回・徳川家名存続の決裁を得た。これが第3の『京都朝議』である。ここに『無血開城』は正式決定した。つまり『無血開城』は、駿府で実質合意し、江戸で徳川方に確認し、京都で新政府が決裁して正式決定されたのである」。
山岡の功績が埋もれてしまっているのは納得できないという著者の義憤は理解できるが、いささか勝に厳し過ぎるというのが、私の率直な見解です。なぜならば、私の企業勤務時代を振り返っても、部下の下交渉を経て、上司が出席する場で正式に交渉が成立した場合、いちいち部下の果たした役割を明記することはないからです。