世間に人気がなくとも、大久保利通は偉大な政治家であった・・・【山椒読書論(139)】
西郷隆盛の人気が高く、大久保利通は人気がないという現象は片手落ちだと、予て感じていた。『大久保利通の肖像――その生と死をめぐって』(横田庄一郎著、朔北社)は、この思いに的確に応えてくれる著作で、大久保の実像が鮮やかに甦ってくる。
「西郷と大久保は、いずれも6尺近い背丈があり、現代の日本にあっても約180センチだから大男である」。
「この二人(西郷と大久保)の組み合わせは歴史の奇跡のようにも思える。西郷、大久保のひとりひとりをとってみても、それぞれに日本史の十指に挙げてもいい人物である。その両雄は日本史上最強の、いや世界史上といってもいい最強のタッグを組んで歴史を大回転させた。その二人は近所の幼馴染であり、貧しい中を助けあって育ち、青年期に志を語り、手を携えて活動し、ついには明治維新という革命を成し遂げ、新政府を建設していく。仮に日本史における友情というテーマで考えてみるとき、真っ先に挙げてもいいのがこの二人である。もともと兄たり弟たりの精神風土から真の友情という概念が育まれるのは、彼らの時代からではないのか。しかし二人は明治国家建設の過程でケンカ別れし、郷里を破壊する戦乱を起こし、最後は刺し違えのように倒れていく」。
「大久保は明治政府の指導者として『富国強兵』『殖産興業』の多面的、多角的な仕事をしていた」。そして、明治11(1878)年に東京・紀尾井町で暗殺される直前に、大久保は訪ねてきた福島県権令・山吉盛典に、明治維新から30年を3期に分けて発展の方策を語っていたのである。それは、「最初の10年は創業、続く第2期は殖産興業、富国強兵の10年、そして明治20年代は完成期で、不肖大久保は今後10年を担当し、あとは後継者に委ねる」という施政の青写真であった。惜しいかな、大久保の享年47。
死後、大久保家の財政状況が明らかになるが、何と「其侘赤貧洗フカ如シ」であった。
最後に、松本清張の『史観宰相論』の一節を引いておく。「大久保は明治全期を通じての大宰相であり大政治家だった。伊藤(博文)も大隈重信も山県有朋も、大久保の各々の面を継承している。伊藤は内政と外交に、初期の大隈は財政に、山県は軍隊と警察に、大久保路線のそれぞれを分担し実践した」。