敗者の側から描かれた明治維新・・・【山椒読書論(53)】
敬愛する書評家・呉智英が「『ある明治人の記録』をまだ読んでいない人間がいるなんて」といった趣旨のことを言っていると知り、これは読んでおかねばと、慌てて、読み始めた。
『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書)は、明治維新時、朝敵の汚名を着せられ、降伏後に辺地に移封され、凄惨な生活を強いられた会津藩士たちの子の一人・柴五郎の遺書である。
これは遺書であると同時に、会津落城の際に自刃した祖母、母、姉妹を偲びつつ書き綴った、自らの惨苦の少年時代の思い出の記でもある。歴史は勝者の視点からのもののみが後世に伝えられる嫌いがあるが、その意味で、この敗者の側からの、維新の裏面史ともいうべき記録は貴重である。
「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢すでに八十路(やそじ)を越えたり。・・・いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず」と始まり、「落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり」と続く。
会津若松城落城は、柴が10歳(数え年)の時のことであったが、11歳の時、俘虜として東京に護送され、脱走、流浪後、下僕生活を送る。12歳時の移封先での困窮生活を経て、14歳の時、東京で再び流浪、下僕生活。15歳の時、知人に勧められ、陸軍幼年学校に入学した時から、運命が開けていく。19歳で陸軍士官学校に進み、21歳で陸軍砲兵少尉。清国(現・中国)での特別任務後、36歳で大本営陸軍部参謀。42歳で北京駐在武官。義和団事件勃発を受けて、北京籠城を指揮。49歳で陸軍少将、重砲兵旅団長、要塞司令官、第十二師団長、東京衛戌総督。61歳で陸軍大将、台湾軍司令官、軍事参議官。1945年、87歳で永眠。
柴の遺書の内容は、会津における出生から、士官学校までで終わっている。これは元来、他人に読ませるべく筆を執ったものではなく、維新の悲惨な犠牲となった父母姉妹らの冥福を祈るためのものであった。
柴が「藩閥の外にありながら、陸軍の中枢を歩んで陸軍大将となり、陸海軍部内の尊敬をあつめ得たのは、翁(晩年の柴を指している)生来の実直さ、誠実さと、私心のない正確な判断力によるものと思われる」。
また、縁の深かった中国に関して、「真に中国を理解し、中国を西欧の植民地化から解放しようとする努力が生まれたことと思う。そうすることによって、日本自体が東洋の支柱となって安定できると考えておられた。真に中国を知り、真に中国の友たらんとした多くの人々は、その後、軍の体制から次第に外されていった」と、編著者が述べている。さらに、「政・軍の分裂、軍における陸・海の対立、しかも陸・海軍部内における派閥抗争、いずれをみても中国から信頼されるものはなかった。このような内部矛盾を蔵したまま、空虚な神がかり的東亜共栄圏、八紘一宇の精神などを唱えてみたところで、柴五郎翁が嘆かれたように、誰もついて来るはずはなかった。それほど末期の日本軍部は中国を知ら」なかったと、誠に手厳しい。