榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ロビンソン・クルーソウは合理的経済人だという説・・・【山椒読書論(308)】

【amazon 『社会科学の方法』 カスタマーレビュー 2013年11月13日】 山椒読書論(308)

久しぶりに書棚から引っ張り出した『社会科学の方法――ヴェーバーとマルクス』(大塚久雄著、岩波新書)を読み返したら、若き日に、大学で大塚久雄の西洋経済史の講義を受けた時、そして、この本を初めて手にした時の感激がまざまざと甦ってきた。

その経験は、驚きに満ちたものであった。先ず、学問の本質とはこういうものなのか、という驚き。そして、難解なため、それまでてこずっていたマルクス経済学の核心部分が霧が晴れるように分かった驚き。さらに、難しい内容をこれほど易しく話したり、書き著すことができるのだという驚き。

本書は、大塚が行った4つの講演の速記録に加筆したものである。

カール・マルクスの経済学、正確には経済学批判については、「経済現象というものは、ほんらいは人間諸個人の営みであり、その成果であるにもかかわらず、それが人間諸個人に対立し、自然と同じように、それ自体頑強に貫徹する法則性をそなえた客観的な運動として現われてくる、というわけです。マルクスはそれを人間の『疎外』だ、と言っております。すなわち、彼のいう『疎外』とは、人間自身の力やその成果が人間自身から独立し、人間に対して、あたかも自然がそうであるような、独自な法則性をもって運動する客観的過程と化してしまうことであります」と述べている。

マルクスによれば、「資本主義社会は歴史上人間の自由の最も失われた時代だということになるわけで」、「マルクスが『経済学批判』――経済学ではなく――という副題を『資本論』にもつけているのは、まさしくその違いを意識してのことだと私は考えております。つまり、疎外現象のなかを動きまわっているだけの経済学を批判して、経済の主体が他ならぬ人間であることを明らかにするのが自分の意図なのだ、そうした意味が『経済学批判』という表題にこめられているのではないかと思うのです」。

これに対し、「マックス・ヴェーバーの方法は、マルクスのばあいにみられるような『疎外からの回復』という観点に立つ経済学の方法というものは、もちろんもっておりません」。「大ざっぱにいえば、こういうことかと思います。ヴェーバーの立場はもちろんマルクスに対する一定の批判を含んでおりますが、この批判を通じてマルクスの見解を相対化しながら、ある意味では、それを自分の立場のなかへ取り入れていったというわけです」。

ヴェーバーの社会学では、「経済的利害状況に押しうごかされつつも、それぞれ自由な意志をもち、さまざまな目的を設定し、そのための手段を選択し、決断しつつ行動する、そういう人間諸個人が認識の対象となりつづけるわけであります」。

そして、ヴェーバーのいう「宗教」「宗教意識」「宗教的理念」は、「思想」と言い換えていいと語っている。このアドヴァイスに、どれだけ救われたことか。

大塚は、ロビンソン・クルーソウについて、実に興味深い見解を披瀝している。「ロビンソン・クルーソウが孤島に漂着して、ともかく、自分の命が助かったことを神に感謝しながら、さらになんとか生き延びていこうと、きわめて現実的な態度で日常生活の設計をおこない、それをたくましく実行にうつしてゆくありさまは、みなさんよくご存じのとおりです」。

「ロビンソン・クルーソウはいったいどういうタイプの行動様式をする人間、つまり、どういう人間類型として描き出されているか、という点を考えてみますと、それはあきらかに、きわめて合理的に行動する人間であります。現実的な計画を立て、それに従って合理的に行動する、そして経済的余剰を最大にするばかりか、再生産の規模をますます大きくしていこうという方向に向かって、合理的に行動する人間であります」。

「ダニエル・デフォウは『ロビンソン・クルーソウ漂流記』で、じつは、当時イギリスの国富を担っていた、さらにまたその輝かしい将来を担うであろう中産的生産者層の行動様式のなかに含まれている、こうした側面をユートピア的に理想化してえがいたのだと私は思うのです」。この「経済人ロビンソン・クルーソウ」という考え方は、何とも魅力的ではないか。

このユニークなロビンソン・クルーソウ論は、『社会科学における人間』(大塚久雄著、岩波新書)でも扱われている。