榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

『舞姫』のエリスと鴎外は、別れた後も文通を続けていた・・・【山椒読書論(347)】

【amazon 『それからのエリス』 カスタマーレビュー 2013年12月19日】 山椒読書論(347)

前著の『鴎外の恋――舞姫エリスの真実』(六草いちか著、講談社)で、森鴎外の『舞姫』のエリスのモデルはエリーゼ・ヴィーゲルトだということを明らかにした六草いちかは、我々のようなエリス・ファンにとっては、何とも頼りになるエリス追跡者である。

続編ともいうべき『それからのエリス――いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』(六草いちか著、講談社)では、その驚異的な粘り強い調査・研究によって、遂に、鴎外と別れた16年後に、エリーゼがユダヤ人と結婚していたこと、別れた後も、密かに鴎外と連絡を取り合っていたことを突き止めている。さらに、エリーゼの妹の孫を見つけ出し、写真のエリーゼとの対面を果たしている。

「母峰は、鴎外の意思を尊重せず一方的にエリーゼを(ドイツへ)追いかえし、登志子との縁談を強引に進めたことが、鴎外や(結婚期間がごく短く終わってしまった)登志子や、ひいては(鴎外の長男の)於菟まで不幸にさせてしまったことをじゅうぶん理解し悔やんでいた。だからこそ、なんとか幸せになってもらいたいと願い、(志げとの)再婚を勧めたのだろう。しかし鴎外の心の傷は深く、けっして首を縦に振らない。そうして登志子との離婚から10年以上の月日が流れた」のである。

エリーゼは、「手足か細くしなやかな体つきでミルクほども白い肌をした、こがね色の髪を揺らし、長い睫毛に青い瞳で微笑みかけた可憐な娘」であった。「エリーゼはベルリンへと帰っていき、鴎外は後を追わない人生を選んでしまったが、生涯にわたって鴎外が彼女を忘れることはなかった。鴎外の作品のあちらこちらにその片鱗を感じ取ることができる」と、著者は主張している。

「鴎外とエリーゼが別れても思いを寄せあっていたことにあらためて気づかされた。まず目を引くのは、ふたりの結婚した年だ。鴎外は、登志子との離縁のあと、12年近くも独身でいたが、思えばエリーゼのほうは、1888年10月17日にベルリンへと帰ってから、じつに16年以上もの間、独身を貫いていたのだ。そして38歳になってから結婚した。当時の感覚からするとかなりの晩婚だ」。「鴎外が登志子と離婚した後、何年も独身でいたことは知られている。今回、エリーゼのその後を調べはじめ、彼女もまたそうだったと知って、ふたりは置かれた場所はちがっても、心はけっして離れることがなかったのだと、驚きとともに感動した。鴎外の再婚がきっかけで、エリーゼも踏ん切りがついて、第二の人生を歩もうと決心したのかもしれないが、もし鴎外がまだ独身を通していたら、エリーゼはどうしていたのだろう。彼女もまた結婚しないでいたのではないか」。世の中には、こういう形の愛もあるのか。

「『舞姫』という作品が、(日本に1カ月滞在した)エリーゼをベルリンへと帰らせた直後ではなく、(鴎外の親友の)賀古鶴所が視察から帰国してきた後というタイミングで書かれたということは、深い意味をもっている。エリーゼが横浜の港を去っていったとき互いの思いはなにも変わらず、ふたりの間に再会の約束があったからこそエリーゼは笑顔で去っていったのだろう。それを見送った鴎外も、まさかのちに『舞姫』を書くことになろうとは、そのときは思いもしなかったのではないか。ふたりの恋に決定的な終止符が打たれたのは、エリーゼのなかではベルリン滞在中の賀古が訪ねてきて鴎外の結婚を知らせた瞬間で、鴎外のなかでは欧米視察から帰国してきた賀古からエリーゼとのやりとりを聞かされた瞬間ではないか」。二人の忍ぶ恋は、長期間、続いていたのだ。

「再会を約束してエリーゼをベルリンへと帰したものの、思ったようにはいかず、それどころか(敬愛する母が強引に進める)登志子との縁談の進展さえも自分の力では止めることができず、結婚へと状況ばかりが進んでいった」のである。一方、「エリーゼは、鴎外がベルリンに戻る日を指折り数えて待っていたのに、訪ねてきた鴎外の親友から聞かされたのは、鴎外はベルリンには戻らないという事実、別の女性と結婚したという真実だったのだから、そのときのショックは相当なものだったにちがいない」。その時のエリーゼの気持ちを思うと、切なさが込み上げてくる。

「ふたりとも10年以上も独身を貫きながら、二度と結ばれることはなく、鴎外は志げと、その3年後にはエリーゼもマックスと結婚する。長い間絶えずにいたという文通は、いつまで続いたのだろう。鴎外の再婚をもって文通は終わったのではないかと私は考える。10年以上にわたってふたたびいっしょになれる機会をもちながらそれを選ばなかったのだ。ふたりのそれぞれの結婚は、互いに納得したうえでの決断だったのではないか。お互いに家庭がありながら、文通だけは続けて、うしろめたい思いを抱えたり、それぞれの伴侶に精神的負担をかけるということは、もはやする必要もないだろう」。

「かつて結ばれるはずだったふたりが、遠く引き離され、10年以上も手紙だけでつながっていたのだ。ながれゆく月日のなかで、鴎外がベルリンへ戻ってくることを、エリーゼがふたたび日本へ来ることを、たがいに望むこともあっただろう。けれども鴎外にはそれができず、エリーゼもそれに応えることができなかった。そしてついには別々の人生をあゆんでいくことになった。鴎外の再婚を機に、手紙を書くことをやめましょうとエリーゼが言ったとき、せめて消息だけは知らせてほしいと鴎外が懇願したのではないか」。何ということだろう。この確かな証拠を著者は発見するのである。日本にあっても鴎外が長期に定期購読していた「ベルリナー・ターゲブラット」紙に、「書状に代えて 昨夜4時頃、短い期間の闘病のすえ、私の最愛の夫であり情愛深き伴侶であった、商人マックス ベルンハルドが55歳で他界いたしました。 喪主 ルーツィ・ベルンハルド 旧姓ヴィーゲルト」という死亡広告が掲載されていたのだ。ルーツィはエリーゼの通称であり、冒頭の「書状に代えて」という文言は、通常の死亡広告には見られない表現である。

「さまざまな困難を乗り越えしっかりと(86年の)人生をまっとうしたエリーゼ」、「どんな苦境にあっても、つらいことより喜びを数え、前を向いて生きようとする彼女の姿を、鴎外は見ていたのではないか。だから傷つけてしまった彼女のことが生涯忘れられなかったのではないか」。これこそ、真の恋だと思う。

私の敬愛する鴎外と、その思われ人・エリーゼの真実を、一念・丹念・執念の追跡で発掘してくれた著者に感謝の気持ちを捧げたい。