何であれ、何もかも、捨ててこそ・・・【山椒読書論(396)】
空也(くうや)という念仏僧については、六波羅蜜寺の、念仏を唱える口から6体の阿弥陀が現れたという伝承を表現した空也上人立像しか知らなかったが、なぜか親しみを感じてきた。
今回、『捨ててこそ 空也』(梓澤要著、新潮社)によって、空也の全体像を知ることができた。
空也は、平安時代中期、醍醐天皇の皇子に生まれながら、父からも母からも愛されることなく、都を出奔する。下層民とともに野辺の骸を弔いながら、人の世の苦しみを味わい続ける。仏の救いと生きる意味を探し求めて諸国を巡り、念仏僧として京に戻ってくる。「『おお、空也さまじゃ、念仏聖がおもどりになられた』。顔なじみの市人たちが次々に集まってきて、空也をとり囲み、目を潤ませて手を合せた」。
空也は、なぜ自ら「空也」と名乗ったのか。「人々のあらゆる苦しみを滅除し、大いなる利益を与える。大乗(仏教)の深義は空なり。『これをおのれの心に刻み込むために、けっして忘れぬように、空也をわが名にしたいと思います』」。
東国行脚中に出会った人物・平将門(たいらのまさかど)の首が、叛乱軍の将として梟(さら)された。「市司に運び入れるのもはばかられる有様に、急遽、市門に掲げるのは取りやめ、門外の柳の大木の幹に釘を打ちつけ、頭髪を縛って架けた。たちまち怖いもの見たさの人垣ができた。空也は人混みに混じって、その男を見た。(将門よ、坂東の男よ)。心の中で問いかけた。赤茶けた髪を無造作に束ね、肉厚の顔を火照らせて、黒光りする巨大な牡馬で草原を疾駆する男。丘に立ち、吹きすさぶ風の中で吠える男。浴びるように酒を呑み、大声で笑い歌う男。妻たちや弟らや郎党や領民たち、皆から慕われ、その太い腕に包み込む男。菅原道真の非業を親族に領地を奪われた自身のそれに重ね、自分がその魂を慰め鎮めるのだと、墓の前でぼろぼろと涙を流す男。雄々しい男。純情一途な坂東の男よ」。「もとはといえば、国司や郡司らが私腹を肥やすために重税を課すせいで、民が塗炭の苦しみに喘いでいることが反乱の原因なのだ。地方官の腐敗と苛斂誅求は朝廷の無為無策に他ならない。だからこそ国司に盾突いた将門を、民たちは支持したのである」。
「たとえ極悪非道の罪人であろうが、心から悔い、救いを求めれば、阿弥陀仏は迎えてくれる。往生できる」というのが、空也の変わらぬ信念であった。
「『わたしが布施行の行者の仲間だったからです。彼らは行基菩薩に倣って土手を築き、橋を架け、井戸を掘って、民を助けておりました。かの弘法大師も溜池を築いて日照りに苦しむ民を救った。民にとって観念的な説法は助けになりませぬ。会津でも京でも涙を流してありがたがられたのは、生きのびるための技術を教えることでした。一人ではとうていやれぬことも、皆が力を合わせればできる。そう教えることでした』。『なるほど、あなたらしいお言葉だ。そうやって民に慕われるようになられたのですな』。『いや、それはちがいます。自利と利他は別ものではない。民たちは自然にわかってくれます。貧しい者たちほど気づいてくれる。不思議なほどです。人間はまんざらのものではない。愚かなだけではない。つくづくそう思います』。だからこそ、いままでなんとかやってこられた。自分を支えてくれたのは民たちの方だ、そう思っている。心底ありがたいと思っている」空也なのだ。常に民の側に立ち、民とともにある空也。
「『あなたは貴賎を問わず慕われております。いまもかように大勢の者たちがあなたのもとに集まり、力を合わせている。なにゆえでしょうか。何がかように人々を引きつけるのでありましょうや』。『さて、わたしはただ、心の底から南無阿弥陀仏と唱えよと、そう説いておるだけ』」。
「『道理、善悪、知識、それらはすべて我欲。往生を願う心も、悟りを求める心も、おのれを縛る執心。自我にとらわれておるのです。執心を捨てねば、おのれを捨てることなどできませぬ。おのれを捨て切らねば、無にはなれませぬ。無にならねば、悟りは得られませぬ』。『悟りを求めるのが執心と? それすら捨てねばならぬと?』。その目が残照を受けてぬめぬめと光を帯びているのを見返し、空也は、『いかにも・・・何であれ、何もかも、捨ててこそ』」。
「人の命はこの水面の泡に似て、はかない。ほんのいっとき、この世に生き、影もなく消えていく。だが、自分というちっぽけな存在が、実は原始以来連綿と営まれつづけているこの自然と宇宙の中で生かされているのだと、宇宙の営みと一体なのだと気づけば、その一部分なのだと確信できれば、この一瞬のはかない命が、実は永遠に生きつづけるものだと思える。自我ではなく命そのものになり、命を燃やしつくすまで生きようと思える。――捨てて生きる。千観に言った自分の言葉を思い出した。捨ててこそ真に自分の命が活かされ、永遠の命をもつことができるのだ」。そう言われても、私のような凡人にはほとほと難しい。けれど、他ならぬ空也が言っているのだから、挑戦してみるか。