現在の私を作ったのは、子供時代の「原っぱ」だった・・・【山椒読書論(552)】
橋本治の最後のエッセイ集『「原っぱ」という社会がほしい』(橋本治著、河出新書)を手にした。
橋本は私の3歳年下であること、橋本も私も育ったのが杉並区で、本書に登場する「原っぱ」と同じようなものが私の周辺にもあったこと、私にとっても「原っぱ」は遊びの大切な舞台であったこと――から、何度も大きく頷いてしまった。
「昭和の三十年代っていうか二十年代の後半から三十年代っていうのはね、やっぱり前近代でしてね。山の手なんだよね、ウチ――杉並だから。杉並で山の手なんだけどね、別にウチ、お屋敷じゃなくて商店街なんですよね。商店街っていうのはカテゴリーとしては下町に属するようなところなのね」。我が家は山の手の住宅地にあったが、ほんの少し歩くと商店街があるという環境だった。従って、杉並区立西田小学校の同級生には、住宅地の子、商店街の子が交じっていて、誰とでも、毎日、よく遊んだ。因みに、橋本は杉並区立シンセン(=新泉)小学校に通っていたと書いている。
「当時はね、原っぱっていうのが一杯あったわけ。・・・誰のものでもない土地で空いてるだけだから、使い道が何もない土地は、大人にとってみればなんの意味もない土地なのね。ところが子供にしてみれば、草の海があるようなもので、そこに来て遊ぶっていうことするのね。・・・自分達で自分が動いていく、その熱気の中にあるものをどうやって形にしていくかってことが分からないかぎり僕達は遊べないっていう、そういう風な形が前提になっちゃってるから、『こうしようよ、ああしようよ』っていう試行錯誤を繰り返してって、遊びのパターンを作るんだよね」。私達も、次から次へと、自分達で遊びのルールを作っていったものだ。
橋本は「世界で、一番幸福だった時代」と述べているが、私も原っぱでの遊びに夢中になっていると、夕刻、母と妹が「夕ご飯できてるわよ」と迎えにきたことを懐かしく思い出す。
本書には、当時,流行ったリリアンやローラースケートも出てくる。
「僕達はなんでそれ(=自分でルールを作ること)が可能だったんだろうっていったら、原っぱがあったからなのね。なんの意味もないただの空き地だったんだけど、僕達がそこにいることによって、そこが僕達の世界に変わってった。だからつまり、世の中がいくらぎゅっと縮まってっても、原っぱがありさえすれば、そこにいさえすれば、人間って、なんとかなるようなものっでいうのは作れるかもしれないと思うのね。だからその、みんなで作ってく混沌を平面に存在させる場面っていう、そういう原っぱっていうのがなくなっちゃ駄目なんだよね。でそれは、原っぱじゃなくても、一つの概念でありさえすればいいと思うのね」。現在の私を作ったのは「原っぱ」だったのだということに、初めて気がついた。