榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

宗教を題材にすると、レトリックの世界がくっきりと見えてくる・・・【山椒読書論(174)】

【amazon 『宗教のレトリック』 カスタマーレビュー 2013年4月10日】 山椒読書論(174)

宗教のレトリック』(中村圭志著、トランスビュー)の著者が、「レトリックについて考えることが、禁断の遊びのように楽しいものであることを教えてくれたのは、1978年に出版された佐藤信夫の『レトリック感覚』であった」と述べているが、実を言えば、私も35年前に『レトリック感覚』で禁断の味を知ってしまった一人である。

本書は、上記の『レトリック感覚』、その続篇の『レトリック認識』の衣鉢を継ぐにふさわしいレヴェルを保っている。

レトリックとは何か。一言で言えば、「言葉のやりくり」で、「直喩」、「隠喩」、「換喩」、「提喩」、「諷喩」、「転喩」、「誇張」、「列叙」、「対比」、「逆説」などの種類がある。

読み始めるまでは、「宗教の・・・」というタイトルが気になったが、宗教のレトリックが題材にされてはいるものの、宗教学者でありながら、著者が宗教に妙に肩入れするということはなく、むしろシニカルである。

「人間ガウタマが『悟り』の権化としてのブッダとなり、ナザレの大工が『救い』の独占ブランドとしてのキリストとなったのは、提喩であると同時に、生命力の発現としての誇張である」、「大事な(本質的な)ものに目をつけるというのが提喩的な心理だ。この『目をつける』が、『似たものに目をつける』へと特化されると隠喩になる。――ブッダの雄弁な説法が人々を黙らせた。それはライオンの咆哮が森の動物たちを黙らせるのと似ている。かくして『獅子吼(ししく)』(経典の表記では師子吼)という隠喩が生まれる(そしてこれを『ブッダの説法はまるでライオンの咆哮のようでした』と散文的に表現すれば直喩となる)。他方、『目をつける』視点をあえて表層的な事物に転じるとき、それは換喩となる。――イエスが刑死した。これは重大事件だ。これを十字形の刑具(スタウロス、英語でクロス、日本語で十字架)という物体で婉曲に表現しよう。かくして十字架はイエスの生涯の換喩となる。単純化していえば、提喩は本質に、隠喩は類似に、換喩は隣接に注目するレトリックである」といった具合だ。

「天国や地獄があるのかないのかということを、たいへん気にしている読者もいると思うが、少なくとも言えることは、いつの時代にも、死後の世界についての言説は曖昧模糊としたものであり、美学的な修辞や権力闘争がらみの言語的牽制、そしてもちろん民衆の道徳教育に資するべく語られた隠喩(たとえ)や諷喩(たとえばなし)としての性格を、濃厚に帯びているということだ」。

この著者はユーモアも忘れていない。「皮肉屋のニーチェだって宗教的な人間ではあったのだ(そうでなきゃ『神は死んだ』なんてツッパリはしない。本当に非宗教的な人間は、神のことなど念頭に浮かびさえしない)」。

本書は、レトリックについて知りたい、学びたい、自分の文章にレトリックを取り入れてみたいという向きには、見逃せない一冊である。