『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーが何を言いたかったのかが、初めて分かった・・・【情熱の本箱(276)】
『社会学史』(大澤真幸著、講談社現代新書)は、社会学の歴史全体を新書一冊に盛り込もうという意欲作である。大澤真幸ならではの力業で、アリストテレスからフーコーまでを厚さ3cmに圧縮することに成功している。
圧巻は、著者が社会学史上の最高峰と評価するマックス・ヴェーバーについての、著者独自の解釈である。それは、ヴェーバーが辿った人生と、彼の最重要著作である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の読み解きを通じて展開されている。
「ヴェーバーは、分類魔なんですね。ヴェーバーの分類は気が利いているからよいのですが、どうでもいいような無意味で煩雑な分類をしている論文を読むと腹が立つことがあります。それはともかく、ヴェーバーは『社会的行為』には4つの類型があると言いました。では、社会的行為の4類型とは何か。第1に、感情的行為。第2に、伝統的行為。『支配の3類型』との対応を考えれば、3つ目は合理的行為になるはずです。が、ヴァーバーはここで合理的行為を2種類に分けます。つまり、目的合理的行為と価値合理的行為の2つです。・・・(この2種類の合理性の)関係を、われわれはどう考えればよいのか。これを解き明かしてくれるのが、ヴェーバーの最も重要なテクストである『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。誰もそんなふうに読んではこなかったと思いますが、このテクストをきっちりと理解すると、2種類の合理性が、あるいはその2種類の合理性はどう関係しているのかが、自然と見えてきます」。
「(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は)重い神経症(鬱病)になって、大学を辞めた直後、病気が最も重い時期に書かれています。これを批判する人は実にたくさんいますが、それは、文句を言いたくなるほど出来がいいということです。・・・一般に、人文社会系の本や論文は、それに対する批判が多いものほど重要だという傾向があります」。
「まず、資本主義の精神とは何か。・・・ヴェーバーは、特にベンジャミン・フランクリンという人を素材にしながら、資本主義の精神がどんなものかを説いています」。
「ヴェーバーは、ルターと結びついた改革だけでは、伝統主義からの離脱は不可能だった、と考えています。伝統のしがらみからのブレイクスルーには、別のもっと重要な要素が必要だった。それこそが、カルヴァン派に代表される禁欲的プロテスタントです。・・・ヴェーバーが重視したのは、カルヴァン派の予定説です。・・・予定説とは何か。何が予定されているのか。キリスト教の設定では、終末の日に裁きがあって、ある人は救われ、神の国で永遠の生を享受することになりますが、ある人は呪われ、地獄に行きます。予定説とは、神は、誰を救い、誰を呪うかということをあらかじめ決定しており、人間の行為によって、これを変更することはできない、とする教説です」。
「この、神がわれわれをどうするかを全部初めから終わりまで決めていて、しかも人間にはそれがわからない、という二重性が、予定説という考え方の根幹です。そして、これが資本主義の精神につながったというのがヴェーバーの言っていることです。問題はその論理です。予定説が資本主義の精神にどのようにつながっていくのか? ヴェーバーはまさにこの点を説明しているわけですが、明快とは言い難い。説明は非常に難しいのです。資本主義の精神が導く行動は、世俗内的な禁欲によって律せられた労働です。しかし、ふつうに考えると、予定説が、そのような倫理的な禁欲の生活に結びつくとはとうてい思えないのです。予定説から世俗内禁欲(合理的禁欲)がもたらされたのだとすると、これはとてつもない逆説です」。
著者は、「ニューカムのパラドクス」を援用することで、この逆説の解明に果敢に挑戦している。
「信者は、神の予想――というか神に帰せられていると想定された知識――に合致するように行動するわけです。客観的に、第三者の観点からすると、これは本末転倒です。・・・神はすでに(全てを)知っており、その師っている内容と合致している予想は外れるはずがない・・・このように想定されている。このとき、信者であるあなたは、神の予想――神が知っているはずのこと――に合致するように行動することになる。・・・かくして、神の予想は当たっていたことになる――というか神はやはりあなたの行動を知っていたことになる。しかし、これは当たり前です。あなたは、あなたが想定している神の予想(神が知っていること)に合致するように行動を選択しているのですから」。
大分端折って引用しているので、分かり難いかもしれない。そこで、著者の考え方を乱暴に一言で言うと、こういうことになるのではないだろうか。●プロテスタントは、死後、自分は地獄でなく、神の国に行く人間として神から選ばれると、何の根拠もなしに確信している→●神から選ばれた自分は、それにふさわしい人生を送らなければならない→●毎日の生活の隅々まで禁欲的かつ合理的に行動する→●それが「資本主義の精神」になる。すなわち、資本主義を成功させるために人々がプロテスタントになったのではなく、プロテスタントたちが、神から選ばれた自分にふさわしい禁欲的かつ合理的な行動を取ったことが、人々の意図とは無関係に、結果的に資本主義を実現させたというのである。
「ヴェーバーの発見の一番重要なところはそこにあります。つまり、個人の意図や意味づけによって社会が決まると言っているのではなく、その意図や意味づけとは違った水準で社会現象が生起してしまうと説明したところに、ヴェーバーの議論のダイナミズムはある。個人の動機や意図や信念には還元できない、それとは違った水準で起きてしまう社会現象に目をつけているのです」。
かなり専門的な内容であっても、読み手が理解を深められるような工夫が随所に凝らされている。時にユーモアを交え、譬えを有効活用することで、説得力が増している。これには、本書が、ごく少数を相手とする講義録を元にしていることが大きく影響しているのだろう。