『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで、腰を抜かすほど驚いた・・・【情熱の本箱(43)】
マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳、岩波文庫)を読んで、腰を抜かすほど驚いた。というのは、読む前は、ヴェーバーは、世俗の営み、特に商業活動を天職として肯定するカルヴィニズムが、人々の商業活動に対する卑賤観を取り払って資本主義の精神的土壌を生み出すことに成功したと主張しているとばかり思っていたのに、ヴェーバー自身が、「私はプロテスタンティズムが近代の資本主義文化をつくったとか、近代の資本主義社会は宗教改革の産物であるとか、そういったことを絶対に言おうとしているのではない。だいいち宗教改革を遂行した人々は、資本主義文化をつくり上げようなどとはいささかも考えていなかった。そんなことは全然彼らの念頭になかった。もしこうした歴史的結末になったことを彼らが知ったとすれば、おそらく、われわれはこんなことをまったく意図していなかったと言うに違いない。彼らはただ、無数の歴史的要因の錯綜するなかで、意図せずして資本主義文化の発達を促進するという役割を果たしたに過ぎなかったのだ」と書き記しているからである。
そうだとすると、営利以外の何物か、とりわけ営利を敵視するピュウリタニズムの経済倫理(世俗内的禁欲<修道院生活以外の社会一般の生活における禁欲>)が、逆に歴史上、近代の資本主義という全く新しい社会事業が生み出される際に、何か大きな貢献をしているのではないかと考え、実証的研究を積み重ね、遂に、近代の資本主義の生誕を人間の内側から推し進めるような経済的エートス(社会の倫理的雰囲気)に辿り着くまでの過程が、本書にまとめられている。
大塚久雄の「ヴェーバーの『資本主義の精神』のばあいには、その担い手のなかに、資本家ばかりでなく労働者も入っております」という指摘は、重要である。
「(ヴェーバーは)エートスのことを天職義務と呼んでおりますが、これは彼が別の場所で『世俗内的禁欲』と呼んでいるのと同じもので、これが『資本主義の精神』を形成する不可欠な核となるわけです。言いかえると、この天職義務と呼ばれるようなエートスを労働者が身につけているばあいにのみ、産業経営的な資本主義が成り立ちうる。つまり、それは資本主義的産業経営にとって構成的な意義をもっているというのです。もちろん、資本家たちのばあいもまったく同様で、この天職義務をいうエートスを彼らが身につけているのでなければ、経営者としての機能を果たしえないだろう、とヴェーバーは言っております」という指摘も、見逃すことができない。
大塚は、ヴェーバーのいう「禁欲」(「キリスト教的禁欲」「行動的禁欲」)は、日本人が思い浮かべる禁欲のイメージとは全く異なるものだと強調している。「他のあらゆることを忘れ、褒美を得んものとただゴールを目がけてひたすら走りに走る。つまり、あらゆる他のことがらへの欲望はすべて抑えてしまって――だから禁欲です――そのエネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込む、こういう行動様式が行動的禁欲なのです」。
本書のエッセンスは、大塚の次の一節が的確に表現している。「(『世俗内的禁欲』のエートスの持ち主たちは)金儲けをしようなどと思っていたわけではなく、神の栄光と隣人への愛のために、つまり、神からあたえられた天職として自分の世俗的な職業活動に専心した。しかも、富の獲得が目的ではないから、無駄な消費はしない。それで結局金が残っていった。残らざるをえなかった。これは彼らが隣人愛を実践したということの標識となり、したがってみずからの救いの確信ともなった。が、ともかく結果として金が儲かってくる。ピュウリタンたちはそれを自分の手元で消費せず、隣人愛にかなうようなことがらのために使おうとした。たとえば彼らは公のために役立てようと寄付した。・・・ところが、結果として金が儲かっただけではない。他面では、彼らのそうした行動は結果として、これまた意図せずして、合理的産業経営を土台とする、歴史的にまったく新しい資本主義の社会的機構をだんだんと作り上げていくことになった。そして、それがしっかりとでき上がってしまうと、こんどは儲けなければ彼らは経営をつづけていけないようになってくる。資本主義の社会機構が逆に彼らに世俗内的禁欲を外側から強制するようになってしまったわけです。こうなると信仰など内面的な力はもういらない。いつのまにか、・・・信仰は薄れていくことになる。こうして、宗教的核心はしだいに失われて、世俗内的禁欲のエートスはいつとはなしにマモン(富)の営みに結びつき、金儲けを倫理的義務として是認するようになってしまった。これが『資本主義の精神』なのです」。
もう一つ驚いたのは、ヴェーバーが、遠く離れたアメリカのベンジャミン・フランクリンの考え方とその影響力について何回も言及していることだ。この背景について、大塚はこう解説している。「(ヴェーバーは)ベンジャミン・フランクリンの――建国期アメリカの民衆に絶大な思想的影響をあたえた――短文のいくつかを引用します。フランクリンの思想は、内容的にはまだまだピュウリタニズムないしカルヴィニズムの思想的残存物がいっぱいつまっていますが、しかし、形の上ではもう宗教から解放されはじめている。ちょうどそうした境目に位置している。ですから、そうした短文は、問題をさらに深く追求していくため格好な材料だというのです」。
さらに驚いたことがある。ヴェーバー研究の第一人者である大塚が、巻末の解説の中で、ヴェーバーの著作の難解さを指摘してからである。大塚ほどの学者にしてそうなのか。いや、大塚だからこそ、正直かつ謙虚に打ち明けているのではないか。大学時代に大塚の西洋経済史の講義を受けた一人として、先生の説得力に満ちた授業が懐かしく思い出される。
本書は、大塚が言うとおり、決して簡単に攻略できる著作ではないが、大塚の行き届いたサポートを得て、ヴェーバーが言いたかったことの本質を掴むことは十分可能である。