榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

馬場あき子の短歌は、豊かな味わいがあるなあ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2168)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年3月21日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2168)

雨の中、千葉県知事選挙に行きました。投票所の小学校ではチューリップが咲き、ミナミメダカ(クロメダカ)が泳いでいます。アイスランド・ポピーが咲き始めています。シバザクラ、ムスカリ、ボケが咲いています。

閑話休題、親友・小栗作郎から、「恋愛至上主義なら、馬場あき子の短歌をぜひ味わうべき」と唆され、『馬場あき子百歌』(歌林の会編著、三一書房)を手にしました。

本書では、馬場あき子の短歌だけでなく、100首を選んだ「歌林の会」の会員100人の鑑賞姿勢も味わうことができます。こういう味わい方もあるのかと目から鱗が落ちるケースがほとんどだが、馬場の作歌意図を勘違いしているのではないかと思われる例も散見されます。

●若き歌まこと妖しくかがやくをぷつつんなりと誰かささやく
「あたかも『サラダ記念日』が空前のベスト・セラーとなり、いわゆるライト・ヴァースが一時代を画そうとしていた時期である。・・・『若き歌』にたいして基本的に優しいまなざしを作者が持っていることに由来しているように思われる。と同時に、上句で『妖しくかがやく』と持ち上げながら下句で『ぷつつんなり』と反転させることにより、けっしてあからさまではない仄かな批評意識を沈ませている。単純化していえば、『若き歌』の受容と拒絶、評価と反発、親和とアレルギーというような評価軸の異なる思いが作者自身と『誰か』という対照的な二者の構図をとおしてこの一首にこめられているのではないか」(松本宏一)。

●邪淫妄語おもしろかりし若き日の色澄みくるやもみぢくれなゐ
「人間臭と祈念とが激しく相殺しあう中、葛藤そのものを包みこもうとするときの妙味。『おもしろ』の語はそんなところに生まれるのであろう。・・・若き日の考察それ自体を懐かしくほほ笑んでいる感もあり、能の『紅葉狩』の鬼女を想起させつつも、眼前の生活の場である庭のもみじの、そのくれない色が秋の光を透して一層鮮明な色に重なり映える風情に己の境涯を静慮する姿が浮かび上がっている」(河本惠津子)。

●ぼうたんは狂はねど百花乱るれば苦しきに似たり恋ぞかがやく
「咲くほかなく今を咲き猛る牡丹。・・・そこに作者は否応なく輝きまさる『恋』を重ねる。苦しい恋に似ている牡丹の花の百花繚乱の様を。また『百花乱るれば』に、より一層牡丹の花の絢爛さが強調される。・・・牡丹の花が狂うのではない、と言いつつ作者は牡丹の花の極まりに、そのあまりの絢爛さに、その香りの豊満さに、苦しみに似た狂を凝視している。また加齢による感慨を重ね取ってもいる」(井村伎余)。

●とろろめし好みし男ともだちの大き臼歯を思ふ春の夜
「作者は、『とろろめし』にそれほど必要のない『臼歯』を思っている。『臼歯』を思いながら、作者は『老』を見つめている。『むかしの吾の好敵手』だった『とろろめし好みし男』は現在も健在だろうか。『とろろめし』を介して『むかし』から『今』へ流れてくる時間と人生」(諸戸泰彦)。

●木花之佐久夜毘売あり散比売ありむかしかなしき身の盛りびと
「美人の木花之佐久夜毘売のみ(求婚者の邇邇芸能命のもとに)留め置かれて、容貌の醜い石長比売は親許に返されてしまう。馬場作品の『散比売』とは、直接的にはこの石長比売を指しているのだろう。・・・『身の盛りびと」とは邇邇芸能命のような権勢・威力のある者を指すのであろうが、この結句に籠めた作者の思いは深い』(川井盛次)。

●老いて男は女体恋ふらし秋風にわが忘れをるわれなる女体
「体の老いを忘れるほどの魂の純粋とは、男の老い以上に難い細道ではあるまいか。上の句の『女体』から結句の『女体』には、さりげなくこうした飛躍が隠されている。この歌がどこか穏やかな安らぎを感じさせるのは。男の性と老いに対するふかいいたわりと恕しもまたそこに備わっているからだろう。精神の気品と丈高さを感じさせる老いの歌である」(川野里子)。

●哲学のやうな男もゐなくなりみだりがはしもをみなの昼餉
「かつて日本の青年層が哲学になじんでいた時代があった。・・・作者の青春は、まだそういう風潮の残る時代だったはずである。青春期の清冽な真理への希求は、哲学への憧れと畏敬となって、作者の心を占めたであろう。同時に青年期の異性へのあこがれと欲求は、哲学への理想とも重なり、哲学のような真摯に真理を探究するタイプの男へのあこがれとなり、男の存在が哲学そのものとして、作者の心を深く捉えたと思う。それから長い時間が過ぎ、女にも男にも老いの時が訪れた。男にはもはや青年の覇気も熱情もなく、哲学的な思想とは遠い処で、人生の現実に生きている。女にもエロスの対象としての男の存在はうすれ、余情としての記憶の残像になってしまった。ただいまだ衰えぬ食欲に、人目をはばかることもなくなった昔の乙女達は、かしましく昼餉を楽しむ」(羽田明美)。

本書の「まえがき」で、馬場が、他者の歌を「立ち入って読む」、「緻密に読む」ことの大切さを強調しているが、歌を読み深めることを学べる一冊です。