54年前に読んだ時とは印象が全然違う『賢者のおくりもの』・・・【山椒読書論(625)】
今回、大型絵本『賢者のおくりもの』(オー・ヘンリー文、リスベート・ツヴェルガー画、矢川澄子訳、冨山房)を読んで、54年前に繙いた大久保康雄訳の新潮文庫『O・ヘンリ短編集(2)』収録の『賢者の贈り物』から受けたのとは全然違う印象に驚かされた。
明日はクリスマスという日、貧しい生活を送っている若妻デラは、愛する夫ジムへのプレゼントに、彼が大事にしている祖父から父へと代々受け継がれてきた金時計用のプラチナの時計鎖を買うために、自分の長い髪を売って、時計鎖の代価に充てる。
男の子のような髪になってしまったデラは、ジムの帰りを待つ。「部屋に入るなり、ジムはうずらのにおいをかぎつけたセッター犬さながら、ぴたりと動きをとめました。目はデラにくぎづけで、なにやらなぞめいた表情をうかべています。それがデラをぞっとさせました。怒りでも、驚きでも、不満でも、恐怖でもない、デラの予想していたどんな感情ともちがっています。そんな奇妙な表情をたたえて、ジムはただデラの顔をあなのあくほど見つめるばかりでした。デラはよろよろとテーブルからおりて、ジムにあゆみよりました。『ジム、ねえ、そんなふうにあたしを見ないで」。デラはさけびました』。
ジムがこのような態度に出るのも当然である。彼は、デラが欲しくてたまらないが高価なため諦めていた、鼈甲で縁に宝石が鏤めてある美しい横髪用と後ろ髷用の櫛セットを買ってきていたからである。その櫛にふさわしいデラの豊かな髪が失われていたからである。何ということだ、櫛を買うために、ジムは大切な時計を手放していたのである。
最後は、こう結ばれている。「わたしがここにつたなくも物語ったのは、アパート住まいの、ふたりのおろかなる人の子の、変哲もないエピソードです。おたがいのために、わが家のなりよりの宝を犠牲にしてしまった、愚の骨頂ともいうべき人々です。だが、最後に現代のかしこい人々にひとこと言わせていただくとすれば、およそおくりものをする人々のうち、このふたりこそは、もっともかしこかったのです。なべて贈答のやりとりをする人々のうち、彼らみたいな人々こそが最高です。どこに住んでいようと、かしこさにはかわりありません。彼らこそ賢者なのです」。
自分の好きな人が喜ぶ顔を見たい――この単純な思いが人を愛することなのだと、改めて思い知らされた私。