榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

イエスは、自らの命を賭けて大博打を打ったのだ・・・【山椒読書論(815)】

【読書クラブ 本好きですか? 2024年3月9日号】 山椒読書論(815)

イエスは自分の宗教を広めるために自ら十字架に架けられるように仕向けたのではないかと、私は若い頃から睨んできたが、何と、このほど手にした短篇集『わかれみち――ヴィジョンアーキテクトが見つめた歴史』(谷口江里也著、未知谷)では、そのイエスの自らの命を賭けた大博打が臨場感豊かに再現されているではないか。

「私を危険視しているユダヤ人社会の祭司たち、とりわけ大祭司カイアファをはじめとするユダヤ人社会の最上位の祭司や長老たちがいるエルサレムに入ることを決意した時、私の覚悟はすでに定まっていた」。

「人間という存在を・・・神の僕として神の言葉を守らなければ罰するのではなく、肯定し愛すること、それが私の務め。それを広めてこの世に平安をもたらすこと。そのために、人々のあらゆる罪や原罪を私の命と引き換えにつぐない、ナザレのイエスという存在を人々の心のなかに永遠化すること。そのことを以って人の心から恐怖を取り除き安らぎをもたらすこと。それが(私に学びの機会を与えてくれた)老祭司と話し合って決めた私が歩むべき道」。

しかし、イエスが想像もしていなかったことが起きる。ユダヤ人社会を支配するローマ総督のピラトが、ユダヤ人社会の最高会議の十字架刑という決定を受け容れずに、何とかイエスの命を救うことはできないかと考えを巡らせ始めたのだ。このピラトの思いが叶わなかったことは、史実が物語っている。

この作品で注目すべき点が3つある。第1は、ピラトの役割が定説とは正反対であること。第2は、イエスの教えを真に信じたのは男性たちではなく、女性たちだったと喝破していること。第3は、イエスの師の老祭司がブッダの仏教に言及していること。

老祭司がイエスに語るブッダの仏教は、驚くほど、その本質を捉えているので、敢えて書き記しておこう。「それはブッダという一人の修行を重ねた人間が説いた教えで、人の心にある悩みや死への恐れから人々を解放する宗教だということだった。ブッダの教えでは、恐れの原因の多くが人が抱く欲望にあり、さまざまな訓練を経て自らの欲望を捨て去ることで、やがて悩みとは無縁の存在になることができるのだということだった」。

本書は、第1話は「ナザレのイエス」だが、第2話以降は、厩戸皇子、阿弖流為、順徳天皇、織田信長、徳川家康と、第7話の松尾芭蕉まで日本人が取り上げられていて、そのいずれも読み応えがある。