イエス、あなたに3つ質問してもいいですか・・・【続・独りよがりの読書論(4)】
もし、歴史上の人物に質問することが許されるなら、イエスにぜひ聞きたいことが3つある。私はキリスト教に限らず、どの宗教も信仰していない無神論者であるが、人間イエスが2000年前にどのように考え、どのように行動したのかということに強い興味を抱いているからである。
第1に、不躾ながら、「イエス、あなたは不義の子ですね」と聞きたい。聖書には神の力で処女マリアが身籠もってあなたが生まれたと書かれているが、本当のところはマリアが婚約者のヨセフ以外の男性と交わり、不義の子を宿してしまったのではありませんか。そして、ヨセフはマリアを愛していたので、大変な苦しみを乗り越えてマリアの過ちを許したのではありませんか。
第2の質問は、「あなたが、ユダヤ教の厳格な『怒りの神』に替えて、寛容な『愛の神』を人々に説き続けたのは、不義を犯した妻を許し、不義の子を自分の子として慈しんでくれた養父への思慕の情が大きく影響しているのではありませんか」。こういう思いから、あなたは神を「父」と呼んだのではありませんか。
第3に、「あなたの苦痛に満ちた惨めな十字架上での死は、自ら人々の全ての罪を背負って死んでいくことによって、人々に神の愛を示そうとしたのではありませんか」と質問したい。さらに言えば、あなたは自分の信じる神の愛が人々の心に強烈な衝撃を与えることを狙って、大博打を打ったのではありませんか。あなたの賭が見事に成功したことは、その後のキリスト教の隆盛が証明しているが、あなたの思想とは全く異なる宗教に変質してしまったのではありませんか。
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『イエスの生涯』(遠藤周作著、新潮文庫)には、史的イエスの姿を必死に追い求めた著者の思いが込められている。「疲れ果てくぼんだ眼。そのくぼんだ眼に哀しげな光がさす。・・・何もできなかった人。この世では無力だった人。・・・彼はただ他の人間たちが苦しんでいる時、それを決して見棄てなかっただけだ。女たちが泣いている時、そのそばにいた。老人が孤独の時、彼の傍にじっと腰かけていた。奇跡など行わなかったが、奇跡よりもっと深い愛がそのくぼんだ眼に溢れていた」。この本で、瞳の中に哀しみの色を浮かべている一人の青年大工に出会うとき、癒されるのは私だけではないだろう。
『キリストの誕生』(遠藤周作著、新潮文庫)は『イエスの生涯』の続編ともいうべき作品で、イエスの逮捕とともに彼を見捨てて逃亡した弟子たちが、イエスの死後、イエスを忘れるどころか、彼を神の子キリストとして信仰するに至る過程が描かれている。
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一方、『イエスという男』(田川建三著、作品社)では、イエスはやわな愛の説教者ではなく、ローマ帝国支配下のパレスチナにおいて、貧しい民衆の側に立ち、そういう民衆をいろいろな形で疎外し抑圧していたローマ帝国の支配者、ユダヤ教の指導者に対して鋭い「異議申し立て」をした、強かな逆説的反抗者として描かれている。「あのようにすさまじく生きたから、あのようにすさまじい死にいたり着いた。いやむしろ、あのようにすさまじい死が予期されているにもかかわらず、敢えてそれを回避せずに生きぬいた」イエスの歴史的真実にどれだけ肉薄できるか、という著者自らの課題に真っ向から挑戦した独創的かつ意欲的な力作である。どのページからも、イエスに対する著者の熱い共感が伝わってくるこの本は、無人島に持っていきたい一冊、そして刑務所に入れられたときにはぜひとも持参したい一冊である。
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『イエス 逆説の生涯』(笠原芳光著、春秋社)では、生家を離脱し、学んだヨハネ教団を離脱し、ユダヤ教とローマ帝国を批判しつつ独自の思想とモラルを説き、民衆とともに自由に生き、やがて自らの弟子集団からも離脱して、死を甘受した「離脱の人」イエスの生涯が、仏教の開祖、ゴータマ・ブッダ(釈迦)と対比しながら描かれている。現代では聖書学者や歴史家はもとより、むしろ一般の人々の間でも、イエスを救世主キリストとして信仰するよりも、優れた、自由な人間と位置づけ、「イエスとは何か」を改めて問い直そうという関心が世界的に盛んになってきている、そして、その風潮がキリスト教会にも次第に大きな影響を及ぼしつつあり、今やキリスト教は根底から揺り動かされているという鋭い分析がなされているが、そのとおりだと思う。
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『イエスとはなにか』(笠原芳光・佐藤研編著、春秋社)では、原始キリスト教団によって救世主に祭り上げられる以前の、人間イエスの生き方と思想を明らかにすることに心血を注ぐ研究者たちの最新の成果が、討議を通じて情熱的に語られている。
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生前のイエスの言行を知ろうとするとき、『イエスとは誰か』(高尾利数著、NHKブックス)によって必要な基礎知識を得ることができる。読み進んでいくうちに、最初はおぼろげであったイエスの真の姿が徐々にくっきりと立ち現れてくるので、刺激的な知的興奮を味わうことができる。
イエスの生涯を伝えているのは、言うまでもなく新約聖書であるが、これは「マルコによる福音書(マルコがイエスの言行を物語風にまとめた文書)」「マタイによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」という4つの福音書とその他の文書で構成されている。いずれの福音書もイエスの死後40~60年が経過してから書かれたものであり、このうち「マタイ」と「ルカ」は、最初に書かれた「マルコ」と「Q資料」(イエス語録集であるが、現存していない)という2つの資料を用いて書かれている。
アメリカの気鋭の聖書学者数十人から成るイエス・セミナーという研究集団が著した『五つの福音書』という実に興味深い本がある。新約聖書の4つの福音書に、異端として扱われてきた外典の「トマスによる福音書」を加えた5つの福音書に記されているイエスの言葉の真偽性が検討されているのだが、イエスの言葉は赤、ピンク、グレイ、黒で印刷されている。赤は「ほぼ確実にイエスの真正な言葉」、ピンクは「イエスの真正な言葉に非常に近いもの」、グレイは「後の教会がイエスの言葉として挿入したもの」、黒は「本来のイエスの言葉とは考えられないもの」という判定結果を示しており、多くの研究者たちから高い評価を得ている。
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新約聖書を読んでみようと思う向きには、『新約聖書』(新約聖書翻訳委員会訳、岩波書店)を薦めたい。手にするまでは難しくて読み辛いと思われがちな聖書だが、意外にすらすらと読める自分を発見することだろう。
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