榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

現実歪曲空間の罪と罰・・・【続・独りよがりの読書論(53)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年6月7日号】 続・独りよがりの読書論(53)

スティーヴ・ジョブズが現実歪曲空間の成功例とするならば、『BAD BLOOD シリコンバレー最大の捏造スキャンダル 全真相』(ジョン・キャリールー著、関美和・櫻井祐子訳、集英社)の主人公、エリザベス・ホームズは現実歪曲空間の失敗例と言えるだろう。

血液検査機器ヴェンチャー、セラノスの若き創業者「エリザベスには、年齢よりもずっと大人びた存在感があった。あの大きな青い瞳で瞬きもせずにじっと見つめられると、まるで自分が世界の中心にいるような気持ちになる。ほとんど睡眠術と言ってもいい。その声にもうっとりさせる効果があった。あり得ないほど低温の、バリトンボイスなのだ」。

投資家たちを「とりこにしたのは、エリザベスのほとばしり出るような熱意と、ナノ/マイクロテクノロジーの原理を診断分野に応用するという、斬新なビジョンだった。セラノスの26ページにわたる投資家向け勧誘資料には、微細な針を使って皮膚から無痛で採血する粘着シールの説明がある。このシール、通称『セラパッチ』には、血液を分析して薬剤の送達量を『制御操作』するための、マイクロチップを用いた検知装置が搭載される予定だった。またこのシールで分析結果を患者の担当医に無線で送信できることにもなっていた。シールのさまざまな機能が部分別に色分けされた図もあった。とはいえ、投資家の全員が全員、売り込みに乗ったわけではなかった」。

スタンフォード大学を2年で中退した、科学や医学の知識が乏しい19歳のエリザベスのSFみたいな夢の実現は並大抵のことではなく、「妥協策として編み出したのが、マイクロ流体力学と生化学とを融合させた、カートリッジとリーダー(読み取り器)からなる装置だ。患者は針で指先を刺して微量の血液検体を採り、厚めのクレジットカードのようなカートリッジに入れる。それを読み取り器と呼ばれる少し大きな容器に差し込むと、読み取り器に組み込まれたポンプの力で、血液がカートリッジ内の微細な流路に押し出され、タンパク質の一種である抗体でコーティングされた小さな容器の中に流れ込む。流路に取り付けられたフィルターによって、血液中の固形成分である赤血球と白血球の細胞が分離され、血漿だけが通過する。血漿は抗体に触れると化学反応を起こしてシグナルを発生し、リーダーがそれを『読み取って』結果に翻訳する。そういう仕組みである。血液検査を頻繁に行えるように、カートリッジと読み取り器を患者の家庭に置くのが、エリザベスの夢だった。読み取り器に搭載された携帯アンテナから中央サーバーを経由して、検査結果が患者の担当医のコンピュータに送られる。担当医はそれを見て投与量をすばやく調整できるので、患者が採血センターや次の診察で血液検査を受けるまで待つ必要がなくなるというわけだ」。

「エリザベスは起業家としての成功をひたむきに追い求めるうちに、自分の周りに幻想を築き、現実から切り離されてしまった。そして、その幻想の中に入ることを許された唯一の人物は、とんでもない悪影響をおよぼしていた」。この「唯一の人物」とは、エリザベスより20歳年上の、仕事でのパートナー、かつ肉体的パートナーでもあるラメシュ・サニー・バルワニである。

エリザベスの後援者には、スタンフォード大学の有名な工学教授、チャニング・ロバートソンや、ジョージ・シュルツ、ジェームズ・マティス、ヘンリー・キッシンジャーといった大物政治家、メディア王、ルバート・マードックなど、エリザベスの魔力に魅入られた著名人が名を連ねていた。「エリザベスはシュルツと親しくなったあと、計画的に一人一人に取り入って、株式と引き換えに取締役の席を用意したのだった」。「この投資でセラノスはさらに9600万ドルを調達し、評価額はなんと90億ドルにまで膨れ上がった。ということは、その過半数を握っていたエリザベスの個人資産はおよそ50億ドルに達していたことになる」。

本書の後半では、セラノスのインチキのからくりを暴こうとする著者側と、そうはさせじと法的対抗策のみならず、抱き込みや隠蔽、中傷、脅しといった手まで繰り出すセラノス側との息詰まるような攻防戦が展開される。「私の記事を握り潰すためなら彼らはどんな汚い手でも使ってくるのだと思い知らされた」。

「法的な責任よりもっと心配なのは、患者に危害を及ぼしかねないことだ。血液検査の誤報告から生まれる最悪のシナリオは2つ。もし偽陽性が出ると、患者は必要のない治療を受けさせられる。偽陰性ははるかに悪質だ。深刻な病気が見逃され、死に至ることもある」。

「記事が(ウォール・ストリート・ジャーナルの)一面に掲載されたのは2015年10月15日の木曜日。『もてはやされたスタートアップの行き詰まり』という地味な見出しながら、内容は衝撃的だった。セラノスがほとんどの検査を他社の従来型検査器で行っていて、技能評価をごまかし、指先穿刺の血液を薄めていることを暴露したうえ、独自検査器の精度に深刻な疑問を投げかけたのだ。記事の結びには、『人々を勝手に実験台に使うのは間違いです』というモーリーン・グランツの言葉を引用し、私が一番大切だと思った点を強調した。それは、セラノスが人々の健康を危険にさらしたという点だ。記事は旋風を巻き起こした」。

「彼女が神と崇めるスティーヴ・ジョブズと同じように、エリザベスもまた現実歪曲空間を作り出し、人々に束の間だが疑惑を忘れさせる力を持っていた」という一行が胸に刺さる。