自らに与えられた時間に限りがあることを知ったとき・・・【情熱的読書人間のないしょ話(189)】
川辺の生物観察会に参加しました。写真に収めた川辺のダイサギ、天辺の梢に止まっているモズは見えないほど小さくしか写っていませんが、私のカメラではこれが限界です。カワセミやオナガの群れは動きが速く、影も写りませんでした。のんびり泳いでいるカルガモはちゃんと写っていました。因みに、本日の歩数は14,676でした。
閑話休題、『六十歳を過ぎて、人生には意味があると思うようになった』(キャロリン・G・ハイルブラン著、亀井よし子訳、メディアファクトリー。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)を久しぶりに読み返したら、いろいろな発見がありました。
「歳をとることは、とりわけ人生の終幕が近づいたときには、引きこもるということだ。いくつもの理由で、外界との出合いのチャンスが減ってゆく。・・・そこで、Eメールの出番になる。・・・旅に出なくても、意に反して自分の秘密を明かさなくても、外の世界と出合うことのできる完璧な方法だ」というEメールの勧めには、驚きました。このエッセイ集が出版されたのは15年前のことで、執筆当時、著者は72歳だったからです。この「Eメール」には、今ならフェイスブックを含めていいかもしれませんね。
『夢見つつ深く植えよ』(メイ・サートン著、武田尚子訳、みすず書房。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)などの著作で知られる、私の好きなメイ・サートンとハイルブランが親しかったことにも驚きました。「(14歳年上の)メイ・サートンは特異な人として生き、1995年、83歳で世を去ったあとも、特異な人でありつづけている。わたしが彼女に会ったのは、彼女が60代に入ったばかりで、ニューハンプシャー州の小さな町ネルソンの寂しい家に引っ越してまもないころのことだった。そして、彼女はわたしの60代が終わったときに、世を去った。それまでのあいだ、彼女は自分で選んだ生活の、そこに必然的に生まれる矛盾の日々を勇敢に生き抜いた。そのあいだじゅう泣き言をいいながら」。しかも、サートンの性格などを赤裸々に語っているではありませんか。「はじめて会ったときから、1995年の死の年まで、サートンはいつもわたしの人生を織りなす糸の一本でありつづけた。わたしの知るほかの誰とも違って、気むずかしくて、親切で、恐ろしく愚痴っぽい、そしてこのうえなく観察眼の鋭い女性だった」。
著者の読書に対する考え方には、共感を覚えます。「(本の中に)まだ見ぬ友を見つけるには、読書家でなければならない。それも、たまにしか読まない読書家であってはならない。退職を前にした男女が、いままで時間がなくてできなかった読書のチャンスがやっと持てるというのを聞くと、わたしはきまって奇異の念に教われる。そんな言い草は信じられない。いままでよりも落ち着いて時間をかけて本が読める、というのならまだしも、読書とは早い時期に獲得された情熱かそうでないかのどちらかで、中間というのはありえない。老年になってはじめても身につくものではないのだ」。こういう件(くだり)から判断すると、ハイルブランもサートンに負けない強い性格の持ち主だったようです。
男性にも痛烈な言辞を吐いています。「なぜ断続的な恋の戯れがそこまで満足を与えてくれるのか。それは、なんといっても、たまにしか会わない男友だちあるいは恋人なら、こちらのいうことにちゃんと耳を貸してくれるからだ――男というのは、どうやら、せいぜいで1日に1時間しか、あるいは情欲が高まったときにしか、女の話にちゃんと耳を傾けようとしない生き物のようだ。男は聞き上手ではない。わたしにいわせれば、臨床精神分析学があれほどぶざまなスタートを切ったのは、フロイトやブロイヤー、あるいは彼らと同類の男たちが、ひとり残らず聞き上手ではなかったせいに決まっている。彼らの耳に入るのは、自分が聞くと予想していたこと、聴きたいと覆っていたこと、あるいは聞くはずだと思い込んでいたことだけなのだ」。私も耳が痛いです。
自らに与えられた時間に限りがあることを知ったとき初めて、残された時間の本当の大切さが分かると教えてくれる一冊です。