ナチス、ソ連、ソ連の傀儡となり果てた祖国と闘ったポーランド人がいた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(199)】
散策中に出会ったモミジバフウは大分赤く色づいていました。カツラも黄色く色づいています。因みに、本日の歩数は10,724でした。
a href=”http://enokidoblog.net/wp-content/uploads/2015/10/P1030118.jpg”>
閑話休題、『アウシュヴィッツを志願した男――ポーランド軍大尉、ヴィトルト・ピレツキは三度死ぬ』(小林公二著、講談社)によって、ヴィトルト・ピレツキという途轍もないポーランド人が存在したことを知りました。
ピレツキの凄さは、3つにまとめることができます。第1は、自ら望んでアウシュヴィッツ収容所に収容されたこと。第2は、2年7カ月後、監視の厳しいアウシュヴィッツからの脱走に成功したこと。第3は、ソ連の傀儡となり果てた社会主義国家ポーランドに敢然と闘いを挑んだこと。
ピレツキは、なぜ自ら望んでアウシュヴィッツに入ったのでしょうか。当面の敵であるナチス・ドイツとの闘い、次いでソ連との闘いに照準を合わせるTAP(ポーランド秘密軍)に所属していたピレツキは、仲間たちが収容されているアウシュヴィッツの実態を明らかにすることと、収容所内に反ナチスの地下組織を構築することを目指したのです。
潜入したピレツキはアウシュヴィッツから秘密ルートを使ってワルシャワのZWZ(武装闘争同盟)司令部に報告を送り続けます。「その詳細なメモが、『ヴィトルト報告』として残された。『報告』の存在が明らかになったのは、ポーランドが社会主義体制と決別した1990年以降のことである。この『報告』は、ピレツキが命をかけて明らかにしようとした収容所内部の事実の集成であり、アウシュヴィッツについて書かれたこれまでの証言や記録にはなかった新たな諸事実の数々が、私たちの前に提示されている。そこでは、ピレツキとともに武装地下組織のメンバーとして闘った仲間や、ともに脱走を試みた仲間、世俗の社会そのものと同じく悪達者や極悪な輩が跋扈する現実が、ピレツキの冷静な観察眼で掘り起こされていく」。
処刑される若い収容者の身代わりになることを申し出て、従容と死んでいった、有名なコルベ神父の行動を目の当たりにした光景も報告されています。
こういう報告も含まれています。「あるとき、地下で尋問を受け、拷問された10人ほどの少女らが、彼(パリッチ)の前に連れ出された。連絡隊長は彼女らに全裸で中庭を走るよう命じた。叫び逃げまどう少女らを表情も変えずに精確に撃ち殺した。この男にとっては実践的なトレーニングに過ぎなかった。またあるとき、両親と幼児の4人家族が連行されてきた。家族全員『死の壁』に向かって立たされた。最初にパリッチは、妻や子供らの前で父親を撃ち殺した。次に、母親の腕にしがみつき、泣き叫ぶ女児を引きちぎるように離すと、地面に俯せに倒れた女児の後頭部に狙いを定め引き金を引いた。ついさっきまで命があったことを訴えるかのように、鮮血が流れ出た。それが終わると、今度は母親から、自分の体の一部のようにその腕にしっかりと抱きしめられていた幼児をひったくり、幼児の足を握るや、思い切り壁に叩き付けた。粉々に砕け、顔のない幼児をなお幾度か振り回し、放り投げた。最後に、放心状態の母親は射殺された。これがパリッチの殺しの流儀だった」。
アウシュヴィッツ脱走後、ピレツキは、祖国を自分たちの手で守ろうと立ち上がったワルシャワ蜂起に参加します。しかし、AK(国内軍)およびワルシャワ市民の対ドイツ・レジスタンスの闘いは一敗地に塗れてしまいます。ピレツキは逮捕され、収容所に送られます。半年後、米軍によって収容所が解放されたため、ナチスとの闘いは終わりを告げますが、新たな闘いがピレツキを待ち受けていたのです。
ナチス崩壊後、スターリン・ソ連はポーランドに対する支配権を確立します。 「ポーランド国内の反ソ抵抗運動の中心であった旧AK指導部は、存在の根拠を完全に失い、ポーランドはソ連の支配下に置かれようとしていた。それは、言葉の真の意味での『正義』が大国の利益にねじ伏せられたことを意味した」。「ソ連の傀儡政権である臨時政権は、ソ連のNKVD(内務人民委員部)に倣って治安、スパイ組織網を作りあげていた。社会主義ポーランドは、亡命政府およびそれに与していた人々を排除し、彼らをすべて非合法化する方向に進んでいた」。「ピレツキのような強い信念の持ち主は、体制側からすれば最も危険な存在であった」。「ソ連を後ろ盾とする挙国一致政府が、祖国ポーランドに自由をもたらす存在ではなく、祖国を支配する名義人が、ドイツからソ連へと、ヒトラーからスターリンへと書き換えられたに過ぎないことが、1年もたたずにはっきりした」。
スターリンの後押しを受けた新政権に対するピレツキらの闘いは困難を極め、遂に逮捕されたピレツキは、尋問と称する拷問の日々を強いられます。「ピレツキの両手の爪が1枚、また1枚と剥がされ、すべてがなくなるのに時間はかからなかった。全身の傷は、骨にまで達するものもあり、首から下の皮膚は青黒く変色し、逞しい身体は、無惨な肉体に変貌していった。精悍だった表情も、徐々に収容者の相になり顔の肉もげっそりとおちていった。こんなことは、アウシュヴィッツでも経験したことがなかった」。そして、見せしめに銃殺されてしまうのです。享年47。
「ピレツキが対決したナチズムの世界とスターリニズムの世界は、ヨーロッパの人々を軍靴で踏みしだき、人々を収容所に送り込み、あるいはその扇動に乗せられた大衆自らが手先となって、左右の全体主義に共振するという混沌とした空間を生み出した」。現在の日本人も、「扇動に乗せられた大衆」にならないように注意が必要ですね。
対極にある左右の全体主義にどこまでも抗うことは、ピレツキにとっては至極当然のことでした。彼は、ナチス・ドイツと闘い、スターリン・ソ連と闘い、社会主義に変質した祖国ポーランドと闘ったのです。このように固い信念のもと、闘い続けたピレツキは、多くの人々を勇気づけてくれることでしょう。