榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

山田太一のエッセイは、その脚本同様、素晴らしくて読み応えがある・・・【情熱的読書人間のないしょ話(271)】

【amazon 『S先生の言葉』 カスタマーレビュー 2016年1月8日】 情熱的読書人間のないしょ話(271)

目が覚めたら、今朝は三日月と明けの明星(金星)との位置が近く、何か語り合っているかのような錯覚に襲われました。

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閑話休題、山田太一は私の一番好きな脚本家です。脚本が素晴らしいのは言うまでもありませんが、そのエッセイもなかなか味があります。山田の選りすぐりのエッセイを集めた『S先生の言葉』(山田太一著、河出文庫)も、期待を裏切らないものでした。

「抜き書きのすすめ」(1984年)は、学生時代に始めた抜き書きを現在も続けている私にとって、非常に興味深いテーマです。「大学に入ったころから、私は読んだ本の抜き書きをするようになった。就職をすると量は減ったが、それでも退職してテレビライターになって数年たつまではなんとか続けていた。やめたのは手が痛くなったからである」と書き出されています。

「いまこれを書くのに抜き書きノートをひらいても、ホッファーのあたりでは、つい読み続けて時間をくってしまう。引用もしたくなる。『血肉の生身たる自己から最も遠いものは何か。――言葉だ』『観念が人びとを動かし、行動にかりたてるのは、観念が単なる言語、ほとんど無意味なシンボルに翻訳することによって可能となる』『史上しばしば、行動は言語の反響(エコー)であった』などなど。・・・読んで行くと、日記のような役割ももっているのである。その時期になにを読んでいたかが分るのは当り前だが、書き抜いていた時の感情を思い出したりもするのである。・・・抜き書きしたことも読んだことも忘れてしまっている文章に、いくらでも教えられることがあるのである」。私もしばしば同じ経験をしているので、山田に親近感を感じてしまいました。「手が痛くなったからとはいえ、抜き書きをやめてしまったことが悔やまれる」。

「潔い孤独」(1999年、2002年)は4ページと短いのですが、山田が映画の助監督として仕えた木下惠介監督と、敬愛する黒澤明監督に触れています。「撮影所内を背筋をぴんとのばして大股に歩く(木下の)姿がいきいきと浮かぶ。小柄だが、大きく見えた。・・・滑稽に威張ったりすることはなかったが、監督だし親分肌のところもあり、いつも何人かをひきつれてという感じになった。俳優、プロデューサー、カメラマン、助監督、他のスタッフの誰かがたいてい一緒だった。時には海外からの映画留学生などということもあった。そういう人にも驚くほど親切だった。それが昭和39年の『香華』(原作・有吉佐和子)で終ることになる。『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾歳月』『野菊の如き君なりき』『楢山節考』と大ヒットを続けた監督も思うようにはつくれない時代が来ていた。テレビの台頭が目ざましかった。観客数が見る見る減りはじめていた。『もう木下さんでは客が来ない』という陰口を私のような『木下組』の人間でもよく耳にした。それはその頃の黒澤明さんも同様で『赤ひげ』(昭和40年)はヒットしたのに、次の『どですかでん』まで5年間なにもつくれなかった。・・・とりわけ多くの観客を相手にしなければならない映画のような仕事には、ある時代をよく生きた人ほど次の時代の壁が厚く高くなる。それは老いたとか衰えたとかいうのともちがう、時代とのどうにもならない齟齬が立ちはだかるのではないだろうか。革命の激動期に立役者だった人が、安定期には邪魔な人物になってしまうような残酷さが、それほどくっきりした形ではなくても、どの時代にもあるのではないだろうか。むしろ老いたり衰えたりしてしまえば齟齬は少ないのだ。依然として活力もあり有能であるからこその別の時代に入って行く苦しさをお二人は生きはじめたのではないだろうか。資本家が機会をあたえなかったとか、無理な注文をしたというような話だけで『どですかでん』を完成していくらもたたない昭和46年に黒澤さんは自殺未遂を起しただろうか。自分との闘いがあったに相違ない」。

「木下さんはテレビドラマの世界へ入って行く。・・・そして、映画からも(次々とドラマを量産した)テレビからも離れた日々が来る。淋しそうになさっていた。勝手な話だが、それがよかったように思える。ゴルフかなにかやってアハハと元気になさっているより、淋しい木下さんは素晴しかったと思う。自分の時代をよく生きた人だからこその凄みのようなものを、その孤独な残像から感じている」。この一篇は、木下、黒澤だけでなく、山田本人の人間像をも巧みに描き出した名作ドラマのような印象を与えます。

「崩壊のとき」(1974年)では、老人ばかりが出る西部劇映画『モンテ・ウォルシュ』が題材となっています。「しかし、その彼ら(モンテ・ウォルシュのかつての仲間たち)の多くは新しい時代においては老いたる敗残者であり無能者である。・・・感傷に溺れんばかりの哀切な映画で、ハリウッドなんかには、こういう心情に共感する老いたる映画人がたくさんいるのだろうなあ、という思いがヒタヒタとせまってくるような傑作であった」。山田にこう書かれては、この『モンテ・ウォルシュ』を見ないで済ますわけにはいきません。

この後、話は映画会社の有能なスタッフたちのその後に移っていきます。「一つの時代が終ったという思いを拭えない。多くの人が、その技術や人格にふさわしい人生を送っていない、と思う。映画という、ささやかな産業でさえ、それが傾きかけると、いかに大勢の魅力のある人格や才能が、不当な運命を強いられることだろうか」。