擡頭期のナチスを間近に見た駐独アメリカ大使とその娘・・・【情熱的読書人間のないしょ話(311)】
私の書斎では、神奈川・横浜の中華街で求めた真っ赤な京劇面がいつも私をじっと見詰めています。私がどういう本を大切に思っているかを、彼はよく知っているのです。
閑話休題、『第三帝国の愛人――ヒトラーと対峙したアメリカ大使一家』(エリック・ラーソン著、佐久間みかよ訳、岩波書店)は、ナチスの一風変わった現場リポートと言えるでしょう。
ヒトラーが権力を握り、狂暴さを露にしていくちょうどその時、駐独アメリカ大使としてベルリンに赴任したウィリアム・D・ドッドとその娘・マーサが間近に見たナチスの行動がドキュメンタリー・タッチで綴られているからです。
ドッドは良識ある生真面目な人物で、ナチスのユダヤ人迫害を止めさせようと彼なりに努力するのですが、とても時代の奔流を塞き止めることはできません。「ドイツに来て最初の1年の間、ドッドは何度も驚くことがあった。国中に広がる残酷な出来事に人々が奇妙に無関心で、大衆と政府の穏健な人物までもが新しい抑圧的な法令を積極的に受け入れており、さらに暴力的な出来事を抵抗なく容認しているからだ。まるで正邪が逆さまになった、おとぎ話の暗い森へ入ってしまったようだった。・・・『ユダヤ人への迫害が起こることが理解できなかった。また、6月30日のようなテロ行為が現代で起こりうることも想像できなかった』と書いている。ドッドは、殺人がドイツの民衆を怒らせ、政権が崩壊することを期待し続けた。しかし、何日経っても、そのような怒りの勃発の証拠を見ることはなかった」。
「ドッドは、ヒトラーとその計画についての警戒を喚起し、アメリカにある孤立主義志向と戦うキャンペーンを始めた。ドッドは、ナチプロパガンダに反対するアメリカ会議を設立し、スペイン民主主義アメリカ友好協会の一員になった。1938年2月21日、ニューヨーク州ロチェスターでのスピーチで、ユダヤ教徒を前にドッドは警告した。ヒトラーがオーストリアの支配権を得たら――これは切迫した事実だったが――、ドイツはその支配を周辺各国に広げるでしょう。ルーマニア、ポーランド、チェコスロヴァキアも同じ危機に晒されている。さらに、他のヨーロッパの民主主義国が、戦争よりも譲歩を選ぶことで武力による抵抗に及ばないならば、ヒトラーはその野望を果てしなく広げるだろう、と予測した」。
一方、娘のマーサは父親とは異なり、自分の性的欲望に忠実な恋多き女性です。事もあろうに、ゲシュタポの若き局長、ルドルフ・ディールスと恋仲になり、ヒトラーによるドイツ再生を讃美したり、ドイツの現実に幻滅を感じると、ドイツの敵対国であるソ連大使館の一等書記官、実はソ連の諜報組織KGBの前身、NKVDのスパイ、ボリス・ヴィノグラードフとの結婚を熱望するといった有様です。しかも、ある男性と親しくしている期間に、他の男性たちとも関係を持つという奔放さです。彼女の場合は、政治的主義・主張より前に肉体的な要請が重きをなしていて、主義・主張はその後に付いてくるのです。
24歳の「マーサは身長が160センチ、金髪に青い目で笑顔が素敵だった。ロマンティックなことが好きで、仕草には誘うようなところがあり、若者だけでなく多くの男たちを惹きつけた」。「クラスメートは、マーサをスカーレット・オハラのようだと言う。『魅力的な女性だ。官能的で、ブロンド、輝く青い目、透明な肌』。作家願望があり、短編や小説の執筆を職業としたいと思っていた」。
マーサはヒットラーに会っています。「プッツィ・ハンフシュテングルがマーサとヒトラーのために設定した逢い引きの朝、マーサは『ヨーロッパの歴史を変えるために指名された』ことを考えながら、入念に身支度した。・・・彼女がヒトラーのテーブルに行って立ち止まると、ヒトラーは立ち上がって挨拶した。彼女の手を取ってキスをすると、何かドイツ語で話しかけた。マーサは彼をじっくり見た。『彫りの浅い、柔らかな印象の顔だった。目の下が袋状に膨らみ、ふっくらした唇で、骨張っていない顔立ち』だった。こんな近くから見ると、口髭も写真で見た時ほど滑稽ではなく、実際ほとんど気がつかなかったとマーサは書いている。注意を引かれたのは目である。ヒトラーの視線には人を射るような強烈なものがあると聞いていたが、今、まさに理解した。『ヒトラーの目は、ぎょっとして忘れられないものだ。色は薄い青、強烈で視線を逸らさず、まるで催眠術師のようだった』。しかし物腰は柔らかだった。『とても優しい』。鉄の独裁者というより、おずおずとした10代の若者のようだった」。
その後、マーサのドイツに対する気持ちは変化していきます。「彼女(マーサ)が新生ドイツに抱いていた賞賛の気持ちはその春以降、萎えていくことになる。彼女のヒトラー政権に対する妄信は、同情の混じる懐疑を経て、夏が近づくと深い嫌悪になった」。
「両親の反対にもかかわらず、マーサがロシア行きを計画していたのだ。マーサは、自分の興味は共産主義にあるのではなく、あくまでボリスへの愛とナチ革命に対して深まる幻滅のためだと言った。ボリスが忠実な共産主義者であることは死っていたが、自分の政治的思考に関する彼の影響は、『個人的な魅力と単純さと国への愛』からに限られると説明した」。
「その(ロシア)旅行によって、ボリスに対してもロシアに対しても怒りを覚え、批判的になった。ロシアは単調でつまらない土地に感じられた。ボリスはがっかりして、『あなたがロシアのどこも好きになれなかったと聞いて、とても悲しい』と書いた」。「旅の途中、ソビエトの内務人民委員部NKVDの諜報員が、よい情報源だとして彼女にスパイにならないかと持ちかけてきた」。1938年に、ボリスはスターリンの狂乱の犠牲となって、処刑されてしまいます。
亡命先のプラハで暮らしていた「マーサは、日ごろ信奉していた共産主義にも幻滅した。その幻滅は、1968年の『プラハの春』で嫌悪に変わった。ある朝起きると、家の前を戦車が走っていた。ソ連がチェコスロヴァキアを侵攻している間じゅう、それは続いた」。
マーサに問題があるとしても、この親子が日記、手記、文書を書き残しておいてくれたからこそ、アメリカ人が間近に見聞きしたナチスをどう見、どう感じたかを知ることができるのです。