榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

歌麿が描いた「難波屋おきた」の美しさにめろめろになってしまった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(467)】

【amazon 『浮世絵の女たち』 カスタマーレビュー 2016年7月31日】 情熱的読書人間のないしょ話(467)

ホタル観察会に参加しました。写真は真っ黒に見えますが、漆黒の森の池の上をヘイケボタルが飛びながら光を点滅させていました。ムネクリイロボタルの幼虫が見つかりました。この幼虫はヘイケボタルとは異なり陸生で、微かな光を発します。ヒグラシの羽化を目撃しました。アブラゼミも羽化中です。夜行性のウスバカミキリが這い回っています。因みに、本日の歩数は10,814でした。

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閑話休題、『浮世絵の女たち』(鈴木由紀子著、幻冬舎)には、浮世絵の美人画を巡る8つのエピソードが収録されています。「江島事件に連座した懐月堂安度」、「鈴木春信の美人画に描かれた看板娘」、「美人の個性を描きわけた喜多川歌麿」、「遊女と恋愛結婚をした山東京伝」、「風流公子酒井抱一と小鸞女史」、「旗本を捨てた鳥文斎栄之の恋」、「型破りな発想と反骨の歌川国芳」、「奇行の天才絵師葛飾北斎の娘応為」のいずれも興味深く読めました。

私にとって一番嬉しかったのは、喜多川歌麿が描いた「難波屋おきた」に出会えたことです。これまで歌麿が描く美人たちには好感が持てなかったのですが、「おきた」の気品ある、きりっとした美しさにめろめろになってしまいました。女房には内緒で、折に触れて見返したい絶品です。「寛政3(1791)年ごろから同5年にかけて、歌麿が美人画に描いたのは、浅草観音境内の水茶屋難波屋おきたと両国薬研堀米沢町の煎餅屋高島長兵衛の娘おひさです。・・・歌麿はとりわけこの二人がお気に入りだったようで、大首絵ばかりでなく、全身像などさまざまなポーズを描いています。二人が対になる大判錦絵『難波屋おきた』と『高島おひさ』は、茶を運ぶおきたの左向きの上半身と、団扇をもったおひさの右向きの上半身を描いたものです。おきたは寛政5年当時16歳、おひさは17歳といずれも娘盛りの美しさが際立ち、まぶしいほど輝いています。おきたは気さくで客あしらいもうまかったらしく、店の前にはいつも人だかりができて、水をまいて追いはらわなければならないほどであったといいます。一つ年上のおひさのほうがいくらか大人びて、落ち着いた雰囲気に描かれています」。

葛飾北斎の娘・葛飾応為の「吉原格子先の図」は、光と陰のコントラストが見事に描き出されているので、レンブラントの作品を思い浮かべてしまいました。「その光と陰が織りなす光景に目を奪われました。吉原遊郭を描いた浮世絵は数多くみてきましたが、夜の遊郭をこれほど斬新に描いた肉筆画をみるのははじめてです。客待ちの遊女が居並ぶ『張見世』とよばれる室内は、まばゆいばかりの明かりに照らされ、闇に沈む格子の外側の人びととのコントラストが、幻想的な空間をつくりだしています。部屋の中央に置かれた大行灯が室内を照らすなか、格子に近づいた遊女のすがたをシルエットで描き、格子越しになじみ客と会話を交わさせる。格子の外には、子どもを背負った女性の影もとらえています。子どもが指さす先にいるのは、遊女になった身内の娘でしょうか、女の絵師ならではの着想と構図が、鮮烈な印象となって心にのこりました」。

遊女と芸者の違いが説明されていて、勉強になりました。「しばしば芸者と遊女をごっちゃにしている人がいますが、吉原遊郭においては、あくまでも客と枕をともにする遊女が主役。芸者は幇間(たいこもち)などの男芸者とともに、客と遊女のあいだをとりもち、お座敷をもりたてる脇役です。吉原の場合、最上級の遊女は大夫とよばれ、大名クラスの客とも互角にわたりあえるほどの高い教養と芸能を身につけていたので、わざわざ芸能者を必要とはしませんでした。それが時代とともに大夫遊びがだんだん下火になり、客筋も武家や上方出身の豪商から新興の江戸町人層に代わるにしたがって、大夫の数も減り、ついに一人も存在しなくなるのが18世紀中ごろの宝暦期。いつしか性と芸が分業となり、遊女とは別に芸者を置くようになりました。妓楼や遊女の名を記した吉原の案内書ともいうべき『吉原細見』に芸者が記録されるようになるのは、明和5(1768)年からといわれています」。