ラテンアメリカ文学とは、具体的には、どういう文学なのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(776)】
我が家の庭の片隅で、クチナシの白い花が咲き始め、芳香を漂わせています。橙色のアメリカノウゼンカズラも咲き始めました。この花目当てに、いろいろな種類のアゲハが入れ替わり立ち替わりやって来ることでしょう。紫色のマツバギクが鮮やかです。アジサイやガクアジサイたちが最盛期を迎えています。隣の公園では、セイヨウキョウチクトウが白い花をたくさん付けています。
閑話休題、ガブリエル・ガルシア・マルケスの『族長の秋』やホルヘ・ルイス・ボルヘスの短篇しか読んだことのない私にとって、ラテンアメリカ文学は最も不案内な分野です。その全体像の概略を知りたくて、『ラテンアメリカ文学入門――ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで』(寺尾隆吉著、中公新書)を手にした次第です。
「文学こそ『我が祖国』というビオイの言葉に示されているとおり、アルゼンチン作家の多くが意識的・無意識的に目指していたのは、ブエノスアイレスの危うい現実世界に代えて、安定したフィクションの世界を創設することだった。そして、マセドニオの理論を受け継ぎ、独自の観点からこれを実践に移すことで、アルゼンチン幻想文学の基本路線を示してみせたのがボルヘスである」。
『伝奇集』のタイトルで刊行された短篇集が、ボルヘスの名を世界に広める出世作となります。それに収録された「有名な短編『バベルの図書館』には、老司書の回想を通して、無数の本を六角形の空間に整然と並べた架空の図書館が描き出されているが、ボルヘスの憧れを具現したこの図書館こそ、彼が創作の源とした書誌学的知識を象徴していた。端的に言えばボルヘスは、リアリズム的要素や人間的要素を極限までそぎ落とすかわりに、世界中の本から集めた歴史的・芸術的・文学的・哲学的知識を注ぎ込み、高度な知的修練としてのフィクションを確立したのだった」。
『アルテミオ・クルスの死』や『ラ・カテドラルでの対話』などの作者「バルガス・ジョサは、『現実が凍りつかぬようありとあらゆる手法を講じて臨場感を醸し出す』姿勢を徹底することで、ラテンアメリカ文学におけるリアリズムを刷新した。・・・アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴーの愛読者だったバルガス・ジョサにとって、小説の本質とはそこに展開される物語自体のおもしろさであり、これによって読者をひきつけることなしに偉大な小説は成立しない」。
「1967年5月にブエノスアイレスのスダメリカーナ社から刊行された『百年の孤独』は、発売と同時にアルゼンチンで空前のヒットとなり、すぐにその成功はスペイン語圏を越えて全世界に広がった。すでに中長編小説3作と短編集1作を出版していたものの、ラテンアメリカはもとより、自国コロンビアでもほぼ無名だったガブリエル・ガルシア・マルケスは、この成功により、すでにあちこちで沸騰しつつあった『ラテンアメリカ文学のブーム』の先頭に立った」。
「『百年の孤独』は、それまでガルシア・マルケスが積み上げてきたリアリズム小説とまったく趣を異にする作品であり、バルガス・ジョサも指摘したとおり、まさに『悪魔の檻を開け放った』ような『大胆な文学的冒険』だった。・・・『百年の孤独』の執筆を通してガルシア・マルケスが学んだのは、説得力のある言葉で語ることさえできれば小説家にはあるゆる逸脱が許されるという創作の指針だった。おかげで彼は、因襲的なリアリズムの理念を離れて語り部としての才能を存分に発揮できるようになり、空飛ぶ絨毯、町全体に蔓延する不眠病、ココアによる空中浮遊、黄色い蝶の群を引き連れて歩き回る男、シーツとともに昇天する少女などの不思議な逸話を作品内に盛り込むことが可能になった。だが、ただ奇抜な逸話をたくさん詰め込むだけで優れた小説ができあがるわけではない。ガルシア・マルケスの真骨頂は、現実世界の表面に隠れた奥深い意味を照らし出すべく、一つひとつの逸話に象徴性を盛り込む卓越した手腕にある。・・・『百年の孤独』が大きな支持を集めた要因の一つは、こうした巧みな象徴体系の構築によって、ラテンアメリカの読者に登場人物との自己同一化を可能にする一方、異文化圏の読者には、具体的挿話を通してラテンアメリカがいかなる世界なのかイメージさせたことにある」。
「1970年代半ば、そうした磁石のような役回りを果たしたテーマが『独裁者』である。・・・ガルシア・マルケスも繰り返し断言したとおり、独裁政権の本質とは、誰を信じればいいのか、自分が一体誰なのか、そうした根底的疑念を引き起こす隔離状態にある。(ガルシア・マルケスの『族長の秋』などの)三大独裁者小説はいずれも、検閲に隠された真実を暴くことで作品内に時間進行を取り戻し、絶対的権力にともなう孤独を独裁者に突きつけて、その支配体制を内側から崩していく。ガルシア・マルケスの描く族長は、大衆の声と自らの内面の声によって、自分が『人生の裏も表も見分けられなかったお笑い草の暴君』でしかなかったことを思い知らされ、独裁制の終焉と歴史の再開を知らせる『栄光の鐘の音』とともに民衆に葬り去られる」。
ラテンアメリカ文学を深く知るには、やはり、『百年の孤独』に挑戦しなければという思いが強くなりました。