名画の隠された意味を暴く恐ろしい本・・・【情熱的読書人間のないしょ話(971)】
東京・台東の浅草寺は歳の市(羽子板市)で賑わっています。隅田の東京スカイツリーはライティングされています。すみだ水族館には非日常の世界が広がっています。
閑話休題、『名画は嘘をつく(2)』(木村泰司著、大和書房・ビジュアルだいわ文庫)には、名画について思いがけないことが書かれています。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオの「イザベラ・デステ」には、「モデルを『よいしょ』しすぎた巨匠」というタイトルが付けられています。「実年齢で描かれることを望まなかったイザベラ(・デステ=ルネサンスを代表する才女)のため、60代にさしかかった実際の年齢よりも40歳ほど若い姿で描かれています。画家の『よいしょ』もすぎます。芸術の偉大なパトロンだっただけでなく、政治力にも長けていた才女イザベラ」。
ピーテル・ブリューゲル(父)の「農民の婚礼の踊り」は、「農民に温かい視線を注いだ絵・・・ではない」と断言しています。「『農民画家』として知られるブリューゲルですが、実際は都会で暮らした学識高い教養人でした。都会の富裕層から愚かな存在と見なされていた農民たちに対し、温かい視線を注いでいるのではなく、享楽的な彼らの姿を描いて反面教師にすることで、ブリューゲルの顧客層にとっては悪徳に対する戒めがテーマとなっているのです」。
ジャン・フランソワ・ミレーの「晩鐘」のタイトルは、「創作された『敬虔で清貧な画家ミレー』神話」と刺激的です。「日本では聖人化されたミレーですが、本人は信仰心が篤かったわけではありません。祖母や母の葬儀にも出ることなく、最初の妻が病死してから1年も経たずに2度目の妻と同棲を始めています。画業が成功してからは美術品収集に精を出し、地元の農民たちとつき合うこともありませんでした」。
ヤン・ステーンの「農民の婚礼(欺かれた花婿)」は、「婚礼の場には相応しくない『寝取られ』を描写」したものだというのです。「新婦の前の床に散らばった花々は、すでに彼女が純潔を失っていることを表します。新婦の後ろで『内緒』のポーズを取る男がお相手だったのでしょう。花婿の頭上には二股の角がぶら下がっていますが、角は『寝取られ男』を意味しているのです」。
ヘラルト・テル・ボルフの「父の訓戒」に描かれているのは、「文豪ゲーテさえも勘違いした偽りの父娘」だと言い放っています。「ゲーテでさえ、父親が娘を叱責している場面だと思い込んでいたのです。しかし、どう見ても男は娘の父親としては若すぎます。この絵の舞台は売春宿です。したがって2人は親子ではなく、めかしこんでやってきた客の兵士と値段交渉されている娼婦です。グラスを傾けているのは、17世紀オランダ風俗画の人気(?)キャラクターである取り持ち女なのです」。
ヨハネス・フェルメールの「リュートを調弦する女」は「なぜ窓辺で調弦しているか、その意味とは?」と問いかけています。「窓辺でリュートを調弦しながら、窓の外に視線を向けている女が描かれています。来客を心待ちしているのが明らかです。伝統的にリュートは女性の性器を象徴し、楽器の演奏自体は性行為を示唆します。つまり、音楽の楽しみは性行為同様に一時の快楽を意味し、その虚しさを説き快楽に対する節制を促していました。絵の中には別の楽器ヴィオラ・ダ・ガンバも描かれていますが、待ち人が到着してから2人がおこなったのは、楽器の演奏だけではないことを表しています」。
著者の主張を素直に信じていいのか、まだ戸惑っている私です。