奇人・変人とされた葛飾北斎の本質と挑戦精神に迫る一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(789)】
大きな水槽で泳ぐカクレクマノミたち熱帯魚を観察していたら、思いがけず時間が経過していました。
閑話休題、『葛飾北斎の本懐』(永田生慈著、角川選書)は、葛飾北斎の類い稀な挑戦精神にスポットを当てています。
「北斎という絵師の最も大きな魅力は、終生何度となく新たな分野へチャレンジし、そのつど新画様を確立し続けて、常に高みを目指したことにあるといえる。つまり、美人画や名所絵、あるいは役者絵などといった、特定の題材のみを生涯にわたり専門に描き続けた絵師ではないのだ」。
北斎が75歳の時に、概ね次のような作画に対する強い思いを開陳しています。「私は六歳から物の形を写生する癖があり、半百(五十歳)の頃から数々の作品を発表してきたものの、七十歳より前には取るに足るものはなかった。七十三歳で、禽獣虫魚の骨格や草木の出生の理を、いくらか悟ることができた。であるから(努力を続けることによって)、八十歳になればますます進み、九十歳ではさらに奥意を極め、百歳になってまさに神妙の域になるのではないか。百何十歳では、描く物の一点一格が生きているようになるだろう。願わくば長寿を司る聖人(神)よ、私のこの努力への言葉が偽りでないことを見ていてください。画狂老人卍(北斎の最後の画号)述」。これは、70代半ばの北斎が、今後の不断で緩まぬ作画への努力を誓った、壮大な人生構想のマニフェストなのです。年齢に囚われない挑戦精神を見倣いたいものです。
奇人・変人とされてきた北斎の心情を、著者はこのように推考しています。「(飯島虚心が著した)『葛飾北斎伝』の中の異なったいくつかの話から、北斎の人間性を検討し、共通するところを集約してみると、一貫してその行動には一途な絵画への研鑽という一点が見えてこないだろうか。奇行とされる行状の大半は、研鑽を遂行するうえで、北斎にとり時間的な無駄や煩わしさからの逃避であって、掃除にしても、それに費やす気力と労力はなかったにちがいない。おそらく、たび重なる転居でさえ、同じ場所に長く住めば住むほど近隣との人付き合いが広まり、その煩わしさも理由の一つであったといえないだろうか。今日においてさえ、北斎は奇人、変人だと見なす人は多い。だが北斎が激怒しやすく、粗暴で暴力をふるったり、他人を誹謗し中傷したという類いの話は微塵も伝わっておらず、そうした性質の奇行とは大きく異なっている。北斎を奇人、変人とする唯一のいわれは、そのほとんどが絵画研鑽への情熱に源を発しているとみて、大過はないはずである」。これを見たら、北斎も満足げに頷くことでしょう。