帰路にヴェトナムに漂着した遣唐使・平群広成の数奇な運命・・・【情熱の本箱(89)】
遣唐使の平群広成(へぐりのひろなり)という人物が帰路にヴェトナムに漂着し、大変な目に遭ったということは、不勉強で知らなかった。
『天平グレート・ジャーニー――遣唐使・平群広成の数奇な冒険』(上野誠著、講談社文庫)を読み進めていくと、自分も遣唐使の一員になったような錯覚に襲われてしまった。なぜなら、研究者が史料に基づき、史料が不足しているところは想像力で補ったこの作品が、当時の雰囲気を醸し出すことに成功しているからである。
「10年、20年に一度のこの機会に遣唐使に選ばれたいと露骨に運動をする若者たちも、当然あらわれた。彼らは、宮廷内でうだつの上がらない中流以下の貴族とその子息たちである。遣唐使となれば、多額の報酬が得られるし、位も特進する。それに、無事に帰ってくれは、出世も早い。このまま、平城京で埋もれているよりは、海を渡って命がけの勝負に出たほうがよい。だから、彼らは熱心に遣唐使任命に向けて猟官運動に精を出しはじめたのである」。
広成が師事する「山上憶良という人は、苦労人なのである。遣唐少録に任命されたのは大宝元年(701)、42歳のときであった。無位無官からの任命である。帰国後、和銅7年(714)正六位下から従五位下に叙され、伯耆守、東宮侍講(いわば皇太子の家庭教師)などを歴任し、神亀3年(726)ころに筑前守として筑紫国・大宰府に赴いたのであった。憶良は、遣唐使となり、唐で学んだ知識によって貴族に列せられた人物であり、その人生は、官位の望めない下級官人たちが夢に見るほど憧れるものであった。遅咲きの人生ながら、憶良を無位無官から貴族にしたのは、かの学識なのである」。
広成が判官(3番目の高官)を務める遣唐使の「使船4艘、無事に蘇州に到り、時に憶良、平城京にその生を了(まつた)うす」。
「長安に入ることのできる嬉しさは、ひとしおのものであった。城壁が見えてくると、一行は思わず息を飲んだ。なんと高い城壁なんだろう。外敵の侵入のない日本の都城には、城壁がないのである。一行の歩みはだんだんと早くなり、いよいよ春明門だ。おそらく、ここに阿倍仲麻呂も下道(吉備)真備も、葛井(井)真成も待ってくれているのだろう。ようやくの長安城内だ」。
広成は、18年前に留学生として入唐した真成を訪れ、膨大な書籍に囲まれた真成と会話を交わすが、間もなく真成は病没してしまう。真成の墓誌、「寂することは、乃ち天の常なるも、哀れなることは茲(こ)れ遠方なることなり。形(み)は既に異土に埋もれたりしも、魂は故郷に帰らむことを庶(こひねが)ふなり」が2004年に発見され、注目を浴びたことは記憶に新しい。
広成は真備とも会話を交わしている。「下道真備はこのとき、齢40、下級官人の子として苦労に苦労を重ね、霊亀2年(716)に入唐留学生に選ばれて、じつに在唐生活18年に及んでいた。その学識に及ぶ者はなく、彼がもちかえる、・・・によって、宮廷の儀式は一新され、軍事技術は近代化され、天体観測をはじめとする科学技術は、驚くほど進歩することとなる。下道真備の学識と、彼のもたらした本は、たしかに新しい日本を作ったのである。下道真備こそは、遣唐使史上もっとも偉大な入唐留学生であるという事実は、争えないのである」。
広成は、日本に帰還する4艘のうちの第3船の指揮官となる。第1船には真備や玄昉という留学僧、さらに仲麻呂が唐女との間に儲けた息子2人も乗り込む。
この後、広成が指揮する第3船は、大変な目に遭うのである。「西南に黒雲発して、船は柁(かじ)を失ひ、平群広成、乗員の心を鎮むるに香を以てす」。
蘇州を出港して6日目、「使節(広成)、漂着して密林に人あるを見、(この入江に着いてから6日後に)吏に問ひて遥か崑崙(ヴェトナム)に漂着せるを知る」のである。
「使節、余儀なく財貨を臨検せられ、時に船匠、寒さを訴へ卒(には)かに死す」。「(医師<くすし>の)玄逸、日録に拠りて悪疫の因を推し、時に使節、敢へて金品の風聞を立つるの愚を犯す」。「広成、林邑国(ヴェトナム)都に上り窮状を陳ぜんとし、道中に安仁、龍穴に到りて一族の来歴を語る」。「広成、林邑国王に謁見するも、市中に幽閉せられてその故を判じえず」――と、次から次へと困難が広成一行を襲う。
「幽閉、幽閉、幽閉。しかし、なんのために日本の遣唐使の判官が幽閉されなければならないのか。平群には、まったくわからなかった。彼らは、自分たちを殺す気なのか。生かしておく気なのか。おそらく、殺すのだったら、とっくに殺しているはずだ」。
「謀られて一時の契り生じ、競漕の計によりて国都を脱す」。「広成、僚官の海賊の禍に罹れるを聞き、自裁せむとして安氏に制せらる」――と、苦難はさらに続く。港で出港準備中の仲間たちが海賊に襲われ、船も人も全滅してしまったことを知らされた広成は、己の責任を感じて自殺を図る。広成らの帰国を支援してくれている安一族の安東から、「私たちも、相当の血を流しているのですよ。あなたは、死んだ百名近い日本の遣唐使たちに対する責任があるとともに、私たちにも応分の責任があるはずだ。それを、勝手に死のうとは、身勝手にもほどがある」と諭され、自決を思い止まり、帰国の決意を新たにする。
「広成、再び長安に到りて語るに由なく、時に(水手の)三麻呂、貨物の中に遣唐使の財を発見す」。「三麻呂、朋輩の最期を尋ねて涙滂沱として禁じえず、広成、帰国の機を得るも心忸怩として肯(がへ)んぜず」。長安で、第2船の指揮官・中臣名代から玄宗皇帝が用意してくれた船で一緒に帰国しようと誘われるが、広成は断ってしまう。「私は、第3船の指揮官です。いま、3名の者が、林邑国で仲間を捜索しています。私たちは、(玄宗)皇帝陛下の勅令による救助命令によって保護され、命を助かりました。いま、私は皇帝陛下に謁見を求め、さらには仲間を捜索している音麻呂・道麻呂・赤麻呂の3人を待つ身です。そして、生き延びた仲間を待つ身です。もう、何も言わないでください」。「いや、それは承知の上のことだ」。「・・・・・・」。「しかしだぞ、もし、この機会に日本に帰らなければ、次の遣唐使まで20年、いや30年待つことになるぞ」。「そうならぬよう、最善を尽くします」。
「阿倍仲麻呂、(玄宗皇帝への)謁見を周旋し、安岳、商賈の理を説きて全浅香を呈す」。「広成、唐都に荏苒(じんぜん)時を過ごすも、北方の憂へに乗じて仲麻呂、使節送還を策す」。「欺きて敢へて仲麻呂難に遭ひ、広成遂に長安を進発す」。18年前に留学生として入唐し、玄宗皇帝の厚い信頼を受けて宮廷の高官となっている仲麻呂が、大芝居を打って、広成、三麻呂ら4名の長安出発を強力に後押しする。
しかし、その後も苦労が続く。「広成、金貞宿に名香を与へ、空船の計を案じて登州を脱す」。「広成、渤海王城に到りて他の使の消息を知り、時に求めに応じて上奏文の文言を草す」。広成は、渤海国に至って初めて、仲麻呂からの書状によって僚船の消息を知ることができたのである。「もうひとつは、他の遣唐使船の消息を知らせるものであった。大使である多治比真人広成の指揮する第1船「安芸」は、越州(現・中国浙江省の中東部)まで吹き戻されるも、天平6年(734)の11月20日に多褹嶋(種子島)に漂着。翌天平7年(735)3月10日に、平城京に戻っているとのことであった。天平8年(736)の2月に明州を出港した、副使・中臣名代の指揮する新造第2船についても、同年5月には、九州大宰府に辿り着き、8月23日に、京に戻ることができたらしい、と書いてある」。仲麻呂の手紙には記されていなかったが、第4船は難破したのか杳として行方が分からぬまま終わったのである。
「広成、渤海国王に全浅香を献じ、時に日本国の風光を問はれて御蓋の山霧を語る」。「つひに再び本朝の土を踏み、平城京に入りて艱難の仔細を糺さる」。苦労を重ね、6年3か月もかかって漸く帰国できたというのに、広成は、第3船の115名中4名しか生き残らなかった責任を追及されたのである。「やはり、平城京は、ひとりだけ生きて帰った判官・平群広成を歓迎してはくれなかった。彼は、いきなり、田村第すなわち藤原仲麻呂邸に、事情聴取という名目で幽閉されてしまったのである。しかし、平群は自分がなぜ幽閉されたのかをよく理解していたので、そのことで悲しむことなどなかった。それに、自分には(聖武)天皇さまに、そして多くの人びとにみずからの旅について語らねばならぬ義務があるとも考えていた。けれども、何をどう語ればよいのか。それは、いまの平群にはあまりにも重く、考えても、考えても知恵及ばぬことであった」。
「天皇、広成を召して全浅香を購ひ、渤熊、新虎、日鼠の譬へを解す」。広成は天皇に掛け合い、第3船と第4船の仲間たち240名の遺族支援策を講じている。
「その後、苦難の遣唐使となった天平5年の遣唐使たちは、それぞれの人生を歩み出すことになった。まず、平群朝臣広成は、この日本で、どのような人生を過ごしたのであろうか。それを評価するのは、はなはだ難しい」。
私が広成の立場だったら、どう考え、どう行動しただろうか。この意味で、本書は危機対応マニュアルの様相も呈している。