日本の家屋が夏向きに造られている、神社が森で囲まれている――その理由が明らかに・・・【情熱の本箱(363)】
『日本人の原風景――風土と信心とたつきの道』(神崎宣武著、講談社学術文庫)のおかげで、いろいろ学ぶことができた。
●日本の家屋が夏向きに造られている理由――
「(日本の家屋は)気密性よりも通気性を重んじたからで、床下や屋根裏が広く空いているのも同様の理由による。そのところでは、日本の家屋は、熱帯雨林のそれに近い。降雨量が多く、雨が樹林を育むところに通気性の高い木造家屋が発達しているのだ。・・・しかし、熱帯雨林地帯と比べると、日本は冬が寒い。開けっ放し、というわけにはゆかない。古くは、障子戸が多用されていた。その外に、板製の雨戸も併用されていた。・・・それでも、冬はなお寒い。わずかな暖房と重ね着で耐えるしかない。と、いうことは、日本の家屋は、湿気対応をもっての、夏仕様なのである」。
「いみじくも、兼好法師が『徒然草』でいっている。<家の造りやうは、夏を旨とすべし。冬は如何なるところにも住まる。あつき頃、わろき住居はたへがたき事なり>と。木にあわせて障子戸や襖戸の発達をみたのも、開閉の利便性とともに、紙による湿気調整の機能性もあってのことだった。その紙も、総じて和紙というは、コウゾやミツマタなどの樹皮を原料としたものであるからだった」。
私は一戸建ての木造家屋に住んでいるが、ホテルに泊まったとき、息苦しさを覚えるのは気密性の差によるのだろう。
●神社が森で囲まれている理由――
「社殿の屋根は、森の中に隠れてほとんど見えない。一方で仏寺の甍は、その大きさを誇示するかのように露呈している。そこに樹木は植わってはいても、森の体をなしていないのだ。その違いは、何なのだろうか。平地にあっての森林は、一部に自然林も残っていようが、ほとんど例外なく人工林である。鎮守の森も、神社がそこに創建されたときに植樹がなされた、とみてよかろう。おそらく、日本ではじめての人工林といってよいのではなかろうか」。
「何のために社殿を樹木で囲ったのか。私は、それは『オヤマ』(御山=霊山)を模したものであろう、という立場をとってきた。オヤマには山のカミをはじめとする諸霊が集いており、人びとはそれを遙拝し、必要なときに里に招き『まつり』を行うのが原初的な信仰であっただろう、と説いてきた。・・・古くカミは山頂部の森を鎮座どころとしたのである。杜(もり)と社(やしろ)は、同意語というものであった。オヤマの山麓に社が建造される。杜が社に変わるわけだ。その場合には、社まわりに樹木を植える必要はあるまい。オヤマを背に社があるのだ。このオヤマを神奈備(かんなび)山といった。あるいは、神体山といった」。
「歴史を古くたどってみると、カミの鎮まるところは、山頂(杜)から山麓(社)へ、さらに平場(神社)へと移行したあとがたどれる。・・・歴史をたどってごく大まかにいえば、カミは山を下りて里に鎮まりたもうたのである。もちろん、それは、カミの望みたもうたことではあるまい。人びとの利便のためであった。人びとの利便とは、参詣や行事のためでもあっただろう。また、氏族や集落の権力や勢力の誇示のためでもあっただろう。・・・大まかにいうならば、社が平地化するなかで、そこに樹林が必要となった。ここでは、オヤマ信仰の原風景を再現せんがため、とする」。
「鎮守の森はあっても、仏寺の森はない。しかし、仏寺には、山号があり山門がある。そこでも、オヤマの意識がはたらいているのである。森をもつかもたないかは、土着のオヤマ信仰からの変遷をみた神社と外来の信仰からなる仏寺の違い、とみる。仏教も、在来信仰に敬意を表するかたちで普及をみたが森の再現まではいたらなかった、とみておこう」。
神社を訪れたときと、仏寺を訪れたとき受ける感じが異なる理由が分かり、すっきりすることができた。
●七福神は江戸時代中期の流行神だった――
「『七福神』は、江戸中期の江戸における流行神(はやりがみ)であった。・・・江戸の町では、正月2日の夜、この宝船の絵を枕の下に敷いて寝ると吉兆の初夢がみられる、という縁起かつぎが流行った。・・・七福神の出自はまちまちである。七福神のほとんどは、異国の神である。・・・恵比寿だけは、日本の神としてよい。・・・時代を特定するのは、むつかしい。大ざっぱには文化・文政のころ(19世紀はじめ)、というしかない。・・・ここでいう七福神参りとは、谷中七福神、下谷七福神、深川七福神など。それは、現在にも伝わる」。
「江戸は、当時では世界で最大規模の新興都市であった。大都市をなす基層文化は、皆無に等しい。同じ日本人であっても、言葉もしきたりも異なる人びとが混住する町である。身分や出自による住み分けが進む一方で、新しい規模のもとでのなじみあいも進むことになる。信仰文化の面でいうと、そこに農山漁村での信仰をそのまま伝えることができない。特定の土地の守護神をもちこんでは、広く支持はえられない。まずは、『ものがたり』上の知名度の高い神仏、あるいは新たな『ものがたり』が構成できる神仏を共有して、都市において生じる願いごとを叶えてもらおうとしたことは、当然のことであっただろう。そこでは、伝統への固執はさほどに必要ではなかった。・・・流行神の出現も、くりかえしの現象であった。七福神巡りも、やがて各地に伝播をみることになったのである」。
民俗学の世界では、物事の由来には諸説あるのだろうが、この著者は、自説をはっきり述べているので気持ちがよい。