榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

各社の文庫の巻末の解説を快刀乱麻・・・【情熱の本箱(179)】

【ほんばこや 2017年3月19日号】 情熱の本箱(179)

文庫を読む楽しみとは、本体と巻末の解説を読む楽しみの総計である。参考になったと納得できる解説が多い一方で、これは何なのだと首を傾げたくなるものもあるというように、まさに玉石混淆である。『文庫解説ワンダーランド』(斎藤美奈子著、岩波新書)は、各社の文庫の解説を俎上に載せ、快刀乱麻を断つ痛快な書である。

川端康成の『伊豆の踊子』の解説はどれもけちょんけちょんに貶されているが、「『伊豆の踊子』の明快な解説をひとつだけ発見した。後発の集英社文庫版である。『解説』は文芸評論家の奥野健男。『鑑賞』は作家の橋本治。二人がともに着目するのは『私』と踊子の間に横たわる階級差である。茶店の婆さんから『旦那さま』と呼ばれるエリートの『私』と『あんな者』とさげすまれる旅芸人の一座の階級差だ。奥野はそこから日本の伝統芸能に見られる<上流貴族と卑賎視された芸人>との<不思議な交歓>に言及し、橋本はそこから『私』の心情をさらに細かく分析する。『私』と踊子の間には超えがたい『身分の差』が横たわっている。当時は売買春も当たり前で、踊子もその含みをもっていた。<『それならいけるか』と思った『私』>は一座についていくが、むろんそんな欲望は表に出せず悶々としている。そんな彼の屈託を解放したのが風呂場で両手をふる薫(踊子)だった。だから彼は<子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた>のである。下心を持って一行に同行した『私』のうしろめたさは、薫の『いい人ね』という一言で救われるが、それでもまだプライドが高すぎて自分の感情が整理できない。しかし、下田の港で彼女が白いハンカチを振る姿を見て、ついに自分の感情が何だったのかを認めるのだ。・・・『あの子が好き』という感情を認めたくなかった『私』の苦い自責が一気にほどけるのが、くだんの唐突なラストシーンなのだ。・・・(他の人による解説のように)作者の孤児根性なんてものに必要以上にこだわらなくても、階級、性欲、差別、そして失恋といった万人共通の媒介項で『伊豆の踊子』は十分読み解ける作品なのだ」。そうだったのか。この部分を読んで、『伊豆の踊子』を読み返すたびに感じていたもやもや感が氷解し、すっきりすることができた。

話は川端康成の『雪国』にも及ぶ。「優れた解説は読者に普遍的な『読み方のヒント』を与える。奥野健男&橋本治コンビの『伊豆の踊子』の解説は、『雪国』にも応用できる。・・・『伊豆の踊子』が一線を越えずに終わった恋愛未満の物語なら、『雪国』は一線を越えたことで恋愛の不可能性に気づいてしまった男女の物語だった。としたら両者は一対の物語だったのかもしれない。三島由紀夫や伊藤整のようなタルい評論は、今日の文芸批評界ではほとんど目にしなくなった(そうでもないか)。いまやほとんど骨董品。その歴史的価値は認めるも、古色蒼然たる解説の前で途方に暮れる読者こそ災難だ。そこで温存されるのは『よくわからないけど、スゴイらしい』という無根拠な権威だけ。文学離れが起きるのも当然かもしれないな」。ここまで言うかと思わせるほど、痛烈至極である。

庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』の解説についても、辛口である。「(佐伯彰一の解説には)重大な誤解がある。少しばかりていねいに読めば、誰にでもわかること。この小説はむしろ、佐伯がインテリの悪癖と切り捨てた<観念的、思想的な新現象>を述べた書であり、表層の軽さこそが<独特のてれ>なのだ。表面的な新風俗や語り口に、解説者と読者はまんまと騙されたのである。それを明るみに出したのは、政治学者の苅部直による新潮文庫版の解説だった。刊行から44年後、文庫発行の39年後。唯一の文庫解説として長く君臨していた佐伯の呑気な解釈に正面勝負を挑むように、苅部は開口一番ブチ上げた。<これは戦いの小説である。あえてもっと言えば、知性のための戦いの>」。

「『赤頭巾ちゃん』における主人公・薫の悩みは、大衆社会を前にした『インテリの悩み』である。もっといえば、一中一高東大という明治以来のエリートコースが瓦解することへの当惑である。目に前には東大入試に中止。背後にはエリート校の権威を解体する学校郡制度の導入。知識人/大衆という線引きが失効した時代に、自分は知識人としていかに生きていったらいいのか。それが『赤頭巾ちゃん』の命題だった」のである。当時、『赤頭巾ちゃん気をつけて』を初めとする薫クン・シリーズを夢中になって読み耽った私は、新感覚の青春小説の登場を深い考えもなく無邪気に歓迎していただけだった(汗)。

作品に屈服した無惨な解説の実例が挙げられている。「『永遠の0』は単純な戦争讃美小説ではない。天才的な戦闘機のパイロットでありながら『生きて帰りたい』が口癖で、にもかかわらず特攻で命を落とした祖父・宮部久蔵。物語はその真実を追って、孫に当たる姉弟が生還した戦友たちを訪ね歩く形をとる。講談社文庫版『永遠の0』の解説は読書家として知られる俳優の児玉清だ。・・・児玉清の解説はあたかもそれが戦争の真実だったかのように読者を誘導するのである。『永遠の0』には<戦争に巻き込まれた我々日本人は、軍人は、国民は、その間に、どのように戦い、どのように生きたのか>が書かれている。<国を護るために戦わなくてはならなくなった若者たちの心とは、命とは。彼ら若者たちを戦場に送り出したエリート将校たちの心は、といったこと>が<見事にわかりやすく>描かれていると。図らずもこの解説は、特攻という非人道的な戦法を発明した日本軍の暴力性と犯罪性を隠蔽する。作品を相対化する視点がまったくないから、読者はまんまと騙される。・・・あらまほしき前線の軍人を描いた『永遠の0』も、いわば一種の英雄譚で、ゆえに多くの読者を獲得したのよ。でもね、解説が作品に屈服したら、やっぱダメでしょ。作品の軍門に降った解説は、読書のためにも作家のためにも作品のためにもならない。だから、ここはあえていいたい。出でよ、闘う文庫解説! 解説は作品の奴隷じゃないのだ」。全く、同感である。児玉のケースは、よき読者が、よき解説者とは限らないという残念な実態を露呈してしまっている。私も書評を書く際の戒めとしたい。

「巻末の解説は文庫の付録、読者サービスのためのオマケである。しかし、人はしばしばオマケが欲しくて商品を買う。文庫解説もまた一個の作品。本文の家来ではない。家来じゃないなら、では何か。あえていえば伴走者だろう」。賛成である。