強盗殺人犯の実弟が綴った、兄と一族の暗部・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1207)】
散策中、ウチワヤンマの雄、ショウジョウトンボの雄、シオカラトンボの雄、シオカラトンボの雌(ムギワラトンボとも呼ばれる)を見つけました。運よく、シオカラトンボの交尾と、水面に腹部の先端を打ち付けての産卵を目撃することができました。産卵の際、水しぶきが上がっています。この雌は、通常の麦藁色でなく、雄と同じ色合いの珍しい個体です。家に帰り着いた途端に、雷が鳴り、夕立が降ってきました。因みに、本日の歩数は12,664でした。
閑話休題、鼎談書評集『三人よれば楽しい読書』(井上ひさし・松山巖・井田真木子著、西田書店)の中で、『心臓を貫かれて』(マイケル・ギルモア著、村上春樹訳、文春文庫、上・下)について、井上ひさしがこう述べています。「20世紀のドストエフスキー的作品です。なによりも強調したいのは、この本が物語の書き手、読み手を究極のところで励ましているということです。人間という危なっかしい存在について深く鋭く書かれているせいでしょう。僕も小説が、物語が書きたくなってきました。本当に読んでよかった」。
『心臓を貫かれて』は、3つの点で私を驚かせました。
第1点は、本書がフィクションではなく、何の罪もない2人の青年を平然と銃で撃ち殺した強盗殺人犯と、その周辺の人々を追跡したノンフィクションだということです。ゲイリー・ギルモアが起こした殺人事件は、村上春樹が訳者後書きの中で、簡潔に説明しています。「ゲイリー・ギルモアは当時35歳、仮出所中の身であったが、ユタ州プロヴォ近郊で、2日のあいだに2人の男を銃で殺した。車のローンを払う金ほしさから行なわれた犯行だったが、実際に盗んだ金は無意味なほどわずかなものであり、それは世界に対する確かな深い憎しみと、ドラッグでいくぶんゆがんだ頭によって行なわれた、無意味で不必要な殺人であった。彼はすぐに逮捕され、ユタ州の法廷で死刑を宣告されたが、当時アメリカでは死刑廃止の世論が強く、もう10年近く死刑が一度も行なわれてはいなかった。少し前に連邦最高裁が『死刑は合憲である』という判決を下していたものの、国民感情を逆撫でしてまで死刑を実行しようという州は、まだひとつもなかった。だから実質的には、死刑宣告は終身刑と同じだった。しかしゲイリーは法廷に対して、自分が判決どおり処刑されることを求めた。『私は男らしく死にたいと思う』と彼はきっぱり宣言した。「銃殺刑を、私は求める」と。これは全米に大きな波紋を巻き起こした。もしゲイリーの死刑が執行されれば、アメリカの歴史における、死刑復活の第一号になる」。
死刑執行を求めるゲイリーは、刑務所に面会にきた著者にこう語っています。「『俺はもう二度とシャバには出られないだろうし、これまでにもうたっぷりとムショ暮らしをしてきた。俺に残されているものは、もう何もない』、彼は僕と顔をつきあわせた。『俺は二人の人間を殺したんだ。これから死ぬまで刑務所に閉じこめられるのはごめんだ。もし誰かが俺を今自由の身にしてくれたら、どこかで銃を手に入れて、お節介な弁護士の奴らを何人か撃ち殺してやる。そしておまえにこう言ってやる、<ほら、余計なことをするからこうなるんだ。おまえもさぞかし誇らしいことだろうよ>ってな』」。
迷いに迷った末に、著者はこういう結論に達します。「彼は死を求めていた。それが彼にとっての救済の最終的なシナリオだったのだ。それが法律から解き放たれる唯一の道だったのだ」。
1977年1月17日、銃殺刑で、ゲイリーはその36年の生涯を閉じます。
第2点は、本書の著者が、殺人を犯した人間の実弟だということです。年の離れた末弟であるマイケル・ギルモアは、一族の中では最もまともな人間に見えます。それだけに、悩みは深く、兄がどうしてこういう事態に至ってしまったのか追究せざるを得なかったのです。この本が究極のところで書き手を励ましているという井上の主張には賛成ですが、読み手も励ましているという考え方には素直に頷けません。少なくとも、読み手の一人である私は、劣悪な家庭環境が犯罪を生み出し、また、それは連鎖するのではないかという暗然たる思いから逃れることができないからです。著者も、こう記しています。「(父)フランク・ギルモアと(母)ベッシー・ブラウン、彼らはなんと哀れで悲しい人々であったことか。僕は二人のことを愛している。しかしやはり、こう言わないわけにはいかない。彼らが子供をもうけたのは、なんと痛ましいことであったのだろう、と」。
第3点は、著者によって、殺人犯とその家族の暗い過去が白日の下に晒されていることです。井上がドストエフスキー的作品と評しているのは、主として、この点を指しているのでしょう。この一族の無軌道、無節制な生き方や、やたらと暴力に訴える短絡的、破滅的な行動は凄まじく、読み進めるのが息苦しくなるほどです。
井上や村上の創作意欲を揺さぶる書であることは、よく理解できます。