琉球王国に対し薩摩藩がやったこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1213)】
散策中、バサバサと音がしたので振り向くと、7mほど先の叢にキジの雄が舞い降りたところでした。生憎、デジカメの電池交換の真っ最中だったため、すぐに飛び立ったキジをカメラに収めることはできませんでした。残念無念! ホオジロが高らかに囀っています。トノサマバッタを見つけました。ハグロトンボの雄の腹部は緑色、雌の腹部は黒色をしています。交尾後、水面近くの水中植物に何度も産卵しています。30cmという至近距離で、シオカラトンボの交尾を目撃するも、撮影に失敗。ウシガエルのウシに似た鳴き声が聞こえてきます。帰り道、森の中はヒグラシの大合唱でした。因みに、本日の歩数は10,896でした。
閑話休題、『琉球王朝記――尚王家の栄光と悲劇』(童門冬二著、三笠書房。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)を読んで、沖縄には、現在のみならず、過去にも苦しみを負わされた歴史があったことを知りました。
「沖縄の苦悩の原因になった薩摩藩の侵略は、1609(慶長14)年3月25日から行なわれた」。
「侵略軍の総司令官は樺山権佐衛門久高であり、副将が平田増宗である。総勢は三千余りだった。その軍勢を率いて、樺山は百余艘の軍船に分乗させ、琉球に向かった」。
「4月5日、琉球王府は会議に会議を重ねた結果、ついに城を開くことに決定した。第二尚氏七代の琉球王尚寧は、城を開いた。そして樺山に和議を申し入れた」。
「この時点で財政危機に陥っていた薩摩側が、琉球側に対してもっていた意図は、『薩摩藩による琉球国の植民地化』である。薩摩藩は、さすがに情報をよくつかんでいた。琉球王国が、明に対して朝貢を行ない、その見返りとして、数々の品物を得、それによって利益を上げていることを知っていた。薩摩藩が眼をつけたのはこの利益だ。したがって、琉球王国が完全に薩摩藩の支配下に入り、明国と交流を断つことは望んでいなかった。薩摩藩首脳部は、『琉球王国はいままでどおり明国に属する王国として、冊封を受けることは、なんら変わりがないほうがいい。薩摩藩が琉球王国を支配していることを知られると、明の態度が変わる。あくまでもこの一事は隠し通さなければならない』という方針を決めていた」。琉球は中国に対して形式的な朝貢はしたが、国家としては独立国だった、しかし、薩摩藩は琉球を完全に植民地にしようと企んだのです。
1611(慶長16)年、琉球は薩摩藩の支配下に置かれてしまいます。
1666(寛文6)年、尚質王から摂政(せっせい)に任命され、「これからは、そなたが思い切って琉球王府が抱えている問題を処理してほしい」と託された羽地朝秀の活躍が強く印象に残ります。「『とにかく、いまは琉球国の延命を第一に考えるべきだ。それにはいたずらに(やり口が酷い)薩摩藩に敵対してもダメだ。同時にまた、琉球国の現状をそのままにしておいてもダメだ。この両者の間をくぐり抜けるような第三の道を探さなければならない』。・・・羽地朝秀にとって最も大切なのは、『琉球王国の自主性をいかに保つか』ということだ。・・・『琉球国民の自主性を尊重しながら、当面、薩摩藩の管理下に入る道はないだろうか』。これが羽地朝秀の考えた『第三の道』であった」。
羽地は、①質素倹約の実行、②風紀の粛正、③女官の権限縮小、④農村の振興、⑤伝統諸芸の奨励――という5つの改革を推し進めたのです。
1872(明治5)年、明治政府によって、琉球王国は琉球藩とされ、国王は藩王となってしまいます。
1879(明治12)年、明治政府は、琉球藩を廃止し、沖縄県とします。
羽地の苦悩と、このほど急逝した知事・翁長雄志の苦悩が重なって見えるのは、私だけでしょうか。