榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

歴史好きを満足させる設問と回答が、てんこ盛りの一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1405)】

【amazon 『日本史の舞台裏大全』 カスタマーレビュー 2019年2月23日】 情熱的読書人間のないしょ話(1405)

千葉・印旛を巡る散歩会に参加しました。山本良男氏の説明で、戦国時代の師戸(もろと)城跡、岩戸城跡の歴史を学ぶことができました。泉福寺の薬師堂は趣があります。印旛歴史民俗資料館では、箱式石棺、師戸城出土の大壺、獅子舞の獅子頭、復元民家、民具など、興味深いものがたくさん展示されています。因みに、本日の歩数は14,687でした。

閑話休題、『日本史の舞台裏大全――通も知らない歴史の内幕』(歴史の謎研究会編、青春出版社)は、歴史好きを満足させる設問と回答が、てんこ盛りです。

●「寝殿造り」のトイレ事情はどうだった? →じつは、寝殿造りにトイレはなく、平安貴族たちは、皮籠(かわご)という携帯トイレを使って用を足していた。日本の住宅にトイレが常設されるようになったのは、鎌倉時代以降のことである。

●戦国時代の馬の大きさはどのくらい? →戦国時代の日本には、サラブレッドもアラブ馬も存在しない。当時、武将たちが操った馬は、現在、木曽や阿蘇、九州の離島などで細々と飼われている日本在来種に近い種。戦国時代の馬は、ずんぐりとした小さな馬だったのである。地面から背中までの高さは、サラブレッドは平均169センチだが、戦国時代の馬は、130センチほど。そのため、屈強な戦国武士たちは、ほとんど地面に足がつくような恰好で、愛馬にまたがっていたのである。

●大名や旗本は、どんな基準で「○○守」を名乗った? →江戸時代の大名や旗本は「○○守」と名乗っていた。たとえば、二代将軍秀忠に新陰流を教えた柳生宗矩は「但馬守」。島原の乱を鎮めた松平信綱は「伊豆守」と名乗り、「知恵伊豆」とあだ名された。この「守」は、彼らの領国とは何の関係もない。「守」は、もとは平安時代の律令制の地方長官を指し、朝廷が任命するものだった。ところが、律令体制が崩壊し、武士が台頭するなか、「守」という官職は有名無実化。勝手に名乗る者が増えていく。江戸時代になると、老中の裁可を得るだけで、「○○守」と名乗れるようになり、これを「守(かみ)名乗り」といった。

●江戸時代、男女混浴でも平気だった? →江戸時代、内風呂がある家はまずなかった。江戸っ子たちは、湯屋と呼ばれた銭湯に通って、体をきれいにしていた。江戸初期の湯屋は、現在の湯船につかる風呂ではなく、サウナのような蒸し風呂だった。お湯につかる湯屋が登場するのは、中期以降のことだ。江戸時代の湯屋の特徴の一つは、男女混浴が多かったことである。町娘は男の裸を見ても平気だったし、逆に男のほうも欲情することはなかった、男女混浴は当たり前のことと、受け止められていたのだ。

●助さん、格さんの水戸藩でのポストは? →テレビドラマでは、黄門様とともに諸国を漫遊する助さんと格さん。当然武士だと思っている人も多いだろうが、彼らは普通にイメージされる武士ではなかった。助さんは元僧侶で、格さんは儒学者だったのだ。二人は水戸藩の彰考館という『大日本史』の編纂所に務める職員だった。現在でいうなら、史料編纂室に勤務する地方公務員である。二人とも、黄門の勧めで彰考館に勤めることになり、助さん・格さんの順で、彰考館の総裁に就任する。二人は、立ち回りとは無縁の真面目で学識豊かなエリート学者だったのだ。・・・二人がじっさいに世直しの旅に出ることはなかった。

●江戸の庶民が数学好きだったのはなぜ? →江戸時代、武士や一般庶民の間で「和算」と呼ばれた数学が盛んになり、農民や職人らさまざまな人々が和算に熱中した。和算が江戸で盛んになったのは、一つには出世や経営のためである。武士は和算ができることで、いい役につくことを夢見たし、商人は計算に生かし、農村では測量に役立てた。ただ、それ以上に大きな理由は、いい暇つぶしだったからである。当時は、現代のように娯楽があふれていない。地方ほど娯楽は少なく。仮にあったとしてもお金がかかることが多かった。ところが、和算を楽しむには、お金はかからないし、道具も要らない。いまでいえば、数独などのパズルに熱中するようなものだ。

●浅野家家臣の討ち入り参加率はどのくらい? →討ち入りに参加した赤穂浪士は47人だが、取りつぶされる前の浅野家は380人もの家臣を擁していた。ということは、家臣の討ち入り参加率は、わずかに12%。残り88%もの人が、仇討ちには参加していない。井上ひさし氏いうところの『不忠臣蔵』組のほうが圧倒的に多いのである。

●東京の田舎から新撰組が生まれたのはどうして? →新撰組が結成される約270年前、徳川家康は江戸に入ると、戦国大名だった武田氏の家臣250人を八王子に移した。農地を与えて、甲州口の警備に当たらせるためだった。しだいに、付近の農民が加わり、関ヶ原合戦の1600年頃には、その数は1000人を超えていた。家康は、武士であり、農民でもある彼らを「八王子千人同心」と呼んだ。彼らは、日頃は鍬をにぎっていても、武士としての誇りを失わず、剣の稽古や学問に精を出していた。豪農の敷地内には剣道場が置かれ、多くの人々が鍛練に励んでいたのである。新撰組の近藤や土方は、この「八王子千人同心」の子孫たちだったのだ。

●明治維新後、色街が激増したのはなぜ? →明治維新後、売春婦が激増した。東京では吉原がにぎわいを盛り返し、九段、向島、湯島、品川など、多くの色街に人があふれるようになった。とりわけ、1872(明治5)年、新橋~横浜間に鉄道が開通すると、新橋が色街として一段と栄えるようになる。そうした色街で働く売春婦の多くは、元旗本や元御家人の娘たちだった。一説に、約17,000人もの旗本や御家人の娘が苦界に身を沈めたという。むろん、明治という時代になって、武士が職を失ったからである。