『甲陽軍鑑』は偽書ではなかった、山本勘助は実在した・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1993)】
大好きなアオスジアゲハをカメラに収めました。コノシメトンボの交尾・産卵を目撃することができました。
閑話休題、『逆説の日本史(25)――明治風雲編 日英同盟と黄禍論の謎』(井沢元彦著、小学館)は、隅々まで井沢らしさが溢れた一冊であるが、とりわけ個人的に目を引き付けられたのは、「歴史学界の大御所たちも誤りを認めた『<甲陽軍鑑>は偽書』というデタラメ」の件(くだり)です。著者も、この「甲陽軍鑑偽書説」崩壊は、『逆説の日本史』シリーズ全体のコンセプトに関わる重大問題だと強調しています。
「『後人の仮託』『小畑景憲纂輯説』と言えば穏やかに聞こえるかもしれないが、要するに小畑景憲という『ペテン師』が、武田家家臣高坂昌信の名を騙ってデッチ上げた『ニセ史料』だ、と決めつけているのである。誇張では無い。(NHKの)番組『歴史秘話ヒストリア』では戦国時代史の権威でもある小和田哲男静岡大学名誉教授が『甲陽軍鑑』について、かつて日本歴史学界は『いわゆる偽書、虚妄の書。ウソが書いてある』としていたと、明確に証言している」。
「ところが、現在はその小和田名誉教授も、同じく日本中世史の権威である黒田日出男東京大学名誉教授も『甲陽軍鑑』を史料として高く評価し、黒田名誉教授に至っては番組の中で『偽作の疑いをかけた人はナンセンス。生きた戦国時代の叙述』であるとまで言い切っているのだ。この発言の重みがわかるだろうか? 『偽作の疑いをかけた人』というのは、具体的にはこれまでの日本歴史学界の戦国史の専門学者、つまり同じ業界の先輩や同僚たち、ほとんどすべてを指していることになる。なぜなら、『甲陽軍鑑は偽書である』説は学界の定説だったからである。それが完全に誤りだったと、大御所たちが公式に宣言したということなのだ。この決断と勇気には敬意を表するが、これがこの番組の最大の歴史的意義である」。
「(私は)『甲陽軍鑑は偽書では無い。高坂昌信が残した真実の記録だ』と何度も繰り返し述べてきた。そのために地方講演や歴史シンポジウムなどの場では、大学や恩師から『甲陽軍鑑偽書説』を叩き込まれた学者や研究家からバカ扱いされた。『シロウトはこれだから困る』という侮蔑の目で見られたことも一度や二度では無い。ところが、彼らのほうが完全に間違っていたのだ」。
「(歴史学者たちに『偽書説』を撤回させたのは)国語学であり、頑迷固陋な歴史学界の定説を変えたのは国語学者であった文学博士酒井憲二の、『甲陽軍鑑』研究だった。酒井博士は全国各地を歩いて『甲陽軍鑑』のもっとも古いテキストを見つけ出し、それが江戸時代初期の言葉では無く、まさに高坂の時代の言葉であったことを証明したのである。そればかりでは無い。小畑景憲が一字一句おろそかにせず原典を筆写したきわめて誠実な人間であったことも証明した。明治以来100年以上『ペテン師』とされていた小畑が、それとはまったく反対のタイプの人間であったことも証明したのである」。
「最大の歴史被害者は山本勘助かもしれない。江戸時代、小畑景憲は『甲陽軍鑑』をテキストに甲州流軍学を始めるのだが、『景憲が甲陽軍鑑をデッチ上げたのだから、当然山本勘助も架空の人物だろう。軍学を教えるなら『軍師』がいたほうが都合がいいからな』ということになり、少なくとも30年ぐらい前までは『山本勘助は実在しなかった』というのが歴史学界の定説であった」。
「私は酒井研究を手がかりに『甲陽軍鑑は正しい』と確信したのでは無い。それとはまったく別のアプローチ『井沢の方法論』によって、その結論にたどり着いた。それは当然『逆説の日本史』の方法論でもある。しかし、この件に関してはそれほど難しいことでは無い。いや簡単すぎるほど簡単だ。この場合の『方法論』とは『常識でものを考える』ということに尽きるからである」。仇敵の日本歴史学界に対する、井沢元彦の高らかな勝利宣言です。
「2008(平成20)年に、群馬県の旧家で武田信玄の『山本管助』宛書状(真下家文書)が発見されたことで、伝説的軍師の実在の可能性が有力になった」。
井沢は、史料絶対主義に毒され、仮説を一切受け付けようとしない日本歴史学界に反省を強く求めているのです。