榎戸氏が、関ヶ原の戦い後、茨城から秋田に移った主君・真壁氏に付いていかなかった理由・・・【続・独りよがりの読書論(46)】
茨城・真壁出身の亡き父から、我が榎戸氏は戦国時代、真壁氏の有力家臣であり、今も当時の墓が残っていること、帰省の際は必ず訪れる榎戸本家は榎戸氏が築城した塙世城(はなわぜじょう)の跡に建っていると聞かされたことがある。佐竹氏とも関係が深く、榎戸家の家紋が佐竹扇なのはそのためだとも言っていた。
佐竹氏は関ヶ原の戦いで豊臣方に付いたため、徳川家康によって茨城から秋田に移されたのに、佐竹氏の家臣・真壁氏の家臣・榎戸氏が茨城に留まり、江戸時代、明治、大正、昭和、平成を通じ、塙世城の跡に住み続けたのはなぜか、疑問に思ってきた。
今回、『真壁氏と真壁城――中世武家の拠点』(石井進監修、真壁町編、河出書房新社)を読んで、この謎が解けた。
「真壁氏の有力な家臣として市村・中原・榎戸・藤田・大関・酒寄・鈴木・塚原・勝田ら諸氏の存在が知られるが、真壁氏発給の文書を伝えている家も少なからず存在している。また、このうち榎戸・中原・勝田らの諸氏は、桜川右岸の台地上に、2町~数町に及ぶ大きな館を構え、西からの侵略・攻撃に対して要害としての役割を担っていたものと考えられる。現在でも空堀・土塁の跡が残っており、戦国時代の土豪館の面影を伝えている」。
「豊臣秀吉の没後、徳川家康派と石田三成派との対立が表面化し、慶長5(1600)年9月、関ヶ原の合戦となった。佐竹義宣は、この戦いに際し傍観していたため、同7年、常陸国より出羽国への国替えを命じられた。これは、減封を含むきびしいもので、家臣の一人であった真壁氏も主君とともに常陸の地を去ることとなる。この国替えは減封をともなったものだけに、家臣の整理が行われ、陪臣の数も減らされたのである。真壁氏も、家臣の数を減らされ、数人の家臣をともなうのみで、大部分の家臣は真壁の地に留まらざるを得なかった。真壁氏は当主房幹と弟の重幹が、出羽国仙北郡久保田(秋田県秋田市)や角館(同角館町)の地へと移っていったようである。所伝によれば、家臣は、酒寄・鈴木・来栖・浜野ら数人が随伴したのみであったという。これによって、平安時代末期以来約430年にわたってつづいてきた真壁氏による真壁地方の支配は終焉を迎え、江戸幕府による新たな支配が展開されることとなったのである」。
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