勝海舟と西郷隆盛と坂本龍馬の人間関係が日本の歴史を変えた・・・【続・独りよがりの読書論(21)】
反主流派史観
『逆説の日本史(20)――幕末年代史編Ⅲ 西郷隆盛と薩英戦争の謎』(井沢元彦著、小学館)は、このシリーズを通じて言えることだが、著者独自の反主流派史観から教えられることが多い。歴史の大きな転換点についてはもちろんだが、小さなエピソードも勉強になる。
「新国家のアウトラインを示した(坂本)龍馬の『船中八策』が、(横井)小楠が福井藩に提出した『国是七条』の影響を受けていることはおそらく間違いない。・・・もちろん『八策』というのは、勝(海舟)の義兄弟(妹の夫)でもある佐久間象山の『海防八策』にも影響を受けているのだろうが、内容的には国是七条の方が船中八策に近い。また龍馬の歴史に残る名セリフ『今一度日本を洗濯致したく候』というのも、実は小楠の口癖であった『天下一統、人心洗濯希(こいねが)うところなり』の受け売りであるとすら言われている。高杉晋作も、師の吉田松陰に勧められて、22歳の年に全国を遊説し小楠に会っている。その時の印象を『なかなかの英物、一ありて二なしの士と存じ奉り候』と述べている。上海で買った2丁のピストルのうち、1丁を龍馬に贈っているくらいだから、高杉と龍馬がかなり親しかったことは間違いない」。幕末の主要人物、小楠、象山、海舟、松陰、龍馬、晋作の人間関係が垣間見える興味深いエピソードである。
「江戸幕府は当初から天皇家が現実に力を持たぬように厳しく統制しており、その経済基盤は俗に言う『山城十万石』だったということだ」。幕末の日本全体の三千五百万石のうちの十万石では何もできないことが、数字で示されている。
長州的観念論
「桂(小五郎)は松下村塾には行っていないが、吉田松陰が若くして長州藩の藩校明倫館の教授となった時、その教えを受けているから、高杉、久坂(玄瑞)らにとって兄弟子にあたる。桂も、高杉が暴走しないように上海へ留学させたくらい彼等弟分の面倒をよく見ていた」。
「当時(1863年)の高杉の気持ちを代弁すれば次のようになるだろう。『久坂たちの完全攘夷という方法論は間違っている。こんなやり方では日本は清国の二の舞となって亡国の危機を迎えてしまうだろう。それを防ぐためには、まず開国し海外の優れた技術・文化を取り入れて、日本を強国にするしかない。それは自明のことだ。しかし、そのことを久坂らは理解しようとすらしない。正論を述べれば命が危ない。だからここはいったん出家し、彼等が本当に正しい道を理解するまで待つしかない』。つまり『東行(とうぎょう)』というのは『オレは久坂とは正反対の方向(開国)を目指すぞ』という意味なのだろう。もちろん、歴史学者は私の説を容易には受け入れまい。その理由はもうおわかりだろうが『そんなことは史料に載っていない』からである」。
「『帝国陸軍不敗神話』『原発安全神話』をもたらした『長州的観念論』」の項は、日本の現状に照らして頗る示唆的である。「こうした歴史をまったく総括していない日本人は、原子力発電所について同じ過ちを繰り返した。『帝国陸軍不敗神話』ならぬ『原発安全神話』である」。
池田屋事件の時、尊皇攘夷過激派の長州の浪士たちの会合場所を1箇所に絞り切れなかった新撰(選)組は、「人数は多いが新人隊士中心の一隊を副長土方歳三が率いて(料亭)『丹虎』へ回り、(旅籠)池田屋には局長近藤勇、沖田総司、永倉新八ら少数精鋭の一隊が向かった」。沖田総司について、「『そうし』と読む向きもあるが『そうじ』が正しい」と、わざわざ著者が注を付している。
「伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)ら『長州ファイブ』の面々は、高杉の弟分で、攘夷の嵐が吹きすさぶ中、長州を脱出しイギリスに留学していた。『5人はロンドンで勉学中、<ロンドンタイムズ>紙上で、長州藩が馬関海峡でたびたび外艦を砲撃し、(列強)各国が連合して問罪の挙に出ようとしている記事を見た。彼らは欧州諸国発展の状況を見聞し、攘夷の無謀を知っていたから、もし郷国が列国と戦端を開けば、滅亡の危機に瀕するかもしれないと憂慮し、藩是を開国に変更させようと、井上と伊藤の2人が帰国してその任にあたり、野村弥吉・遠藤謹助・山尾庸三の3人は留学の宿志を果たし、万一、2人が同時に死んだら後図を継ぐため、残留することとした』(『高杉晋作』梅溪昇著 吉川弘文館刊)」。
「そもそも尊王と攘夷は別次元の話だ。尊王とは天皇に忠義を尽くすことであり、攘夷は外国勢力を国から排除することだ。直接の関連性は無い。それを孝明天皇(明治天皇の父)が望んでおられるという形(実際に望んでいたが)で、絶対に逆らえないスローガンに変えたのが、この時代であったのだ。長州はトップや幹部はともかく、下へ行けば行くほど過激な(闇雲に即攘夷を決行しようとする)小攘夷の支持者であった。高杉や井上とて実際に外国を自分の目で見るまでは小攘夷の支持者だったのだから、無理もないと言えば無理もないが、もう少し理性的に冷静に物を考えられないのかと思うのは私ばかりではあるまい」。「尊皇」「攘夷」「尊皇攘夷」が明快に説明されている。
「一般に、長州藩というのは明治維新をリードした藩としてイメージが良いが、実情はこれであった。無茶な『小攘夷』を貫こうとして、何度も暴発を繰り返す。挙句の果てに、禁門の変で大惨敗を喫する。それでも懲りずに英仏蘭米の四か国連合艦隊と下関で決戦し、文字通り完膚なきまでに叩かれる――。最初から外国と戦うべきではないと主張していた伊藤も井上も、座敷牢で事態を見守っていた高杉も、いくら何でもこれで(尊皇攘夷過激派の)目が覚めただろうと考えた。今の長州の武力では欧米列強に勝てるはずがないということである」。
勝海舟、西郷隆盛、そして坂本龍馬
巻末近くに至り、本書最大の山場を迎える。幕末は日本史上最大の亡国の危機であった。「長州討伐軍の大将には御三家の尾張藩の当主徳川慶勝が選ばれた。そして参謀には西郷(隆盛)が選ばれた。外様大名の、当主ですらない西郷が、いわば『官軍』の頭脳となったのである。薩摩藩が(長州討伐に)『本気』であったことの何よりの証拠だろう。その西郷が突然百八十度の転換を見せた。長州討つべしの論者が、にわかに長州許すべしに変わったのだ。それはある人物に説得されたからなのである」。
「(初)対面の後、西郷は大久保利通宛に有名な書簡を送っている。『<大意>勝氏に初めて会いましたが、実に驚くべき人物です。最初はへこませるつもりだったのですが、すぐに頭を下げました、どれほど知略があるやらわからないほどで、まず英雄の肌合いを持った人物でしょう。(亡くなった)佐久間象山より実行力があり、学問と見識でも、いまや勝先生の方がまさっているかもしれません。いやはや、ひどく惚れ込みました』。まさに絶賛というべきだろう。西郷がこれだけ褒めている人物は後にも先にも勝一人しかいない(<島津>斉彬は主君であり、西郷にとっては『神』であるから批評の対象ではない)。では、一体、勝は何をもって西郷をここまで感心させたのか?」。
「勝はこう言ったのだろう。『今は欧米列強が日本を植民地化しようと狙っている時代ではないか。日本人は一致団結すべきであって、身内で争っている場合ではない。薩摩も長州にはいろいろと言いたいこともあろうが、ここは心を広く持って寛大な処分で許してやるべきだ』。そして、こう付け加えた可能性もある。『場合によっては薩摩と長州が手を組んで、老朽化した幕府を倒すということになるかもしれない。だからこそ長州を潰してしまうのは得策とはいえませんぞ』。私は勝海舟を維新の志士ナンバー1だと思っている。人格、人望という点では西郷に劣るかもしれないが、勝は最初から最後まで『日本人』という視点で物事を考えていて、その信念は一度もブレていないからだ。大事なのは日本であり、幕府でも薩摩でも長州でもない。天皇家ですらない。『愛国ということを忘れた勤皇など意味がない』のである」。
一方、「勝の方も西郷にほれた。この会談後、勝があまりに頻繁に西郷のことを褒めるものだから、一番弟子の龍馬は『私も会ってみたいから添書(紹介状)を書いてくれ』と師匠の勝に頼んで西郷に会いに行った。帰って来た龍馬に勝が『どうだった?』と聞くと、龍馬は『成程西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で利口なら大きな利口だらう(『氷川清話』)』と言ったという。勝は『評せられる人も評せられる人、評する人も評する人』と、共に大したヤツだという感想を述べている。この時から2年後に、龍馬の仲介によって薩長同盟ができる。さらに、倒幕の官軍の総参謀的地位に西郷が就任し、幕府を代表する勝との間で江戸城無血開城が実現する。この2つの『未来』の下地はこの時に出来たのである」。これこそ歴史の妙と言うべきだろう。こういう歴史の醍醐味を味わいたくて、私は『逆説の日本史』シリーズを読み続けているのだ。
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