榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

坂本龍馬、岩倉具視、勝海舟、西郷隆盛らの真の姿が浮かび上がってくる歴史書・・・【リーダーのための読書論(51)】

【amazon 『逆説の日本史(21)』 カスタマーレビュー 2015年1月13日】 リーダーのための読書論(51)

井沢元彦の「逆説の日本史」シリーズは、どの巻も刺激的であるが、『逆説の日本史(21)――幕末年代史編Ⅳ 高杉晋作と維新回天の謎』(井沢元彦著、小学館)も期待を裏切らない内容であった。

犬猿の仲だった薩摩と長州の手を握らせた薩長同盟は坂本龍馬が仕掛けたものということはよく知られているが、本書ではその源流が明らかにされている。「『犬猿の仲』である薩摩も長州も、勤皇派の福岡藩士の言うことなら耳を傾ける、ということだ。こんな『貴重』な立場にいるのは全国で彼等だけで、その代表が月形洗蔵なのである。『薩長軍事同盟』までは行かなくても、月形は当然のように薩摩と長州を仲直りさせようと、思ったはずだ。両藩が対立していることは、日本を狙う外国にとっては思うつぼだからである。だが彼(月形)等は捕らえられただけでなく、武士の礼としての切腹も許されず大罪人として無惨に処刑された。月形らと親しく交わりを結んでいた中岡(慎太郎)は『彼等の遺志』を継ぐべきだ、と決意しただろう。そして中岡と親しい龍馬も、もともと共和政治つまり雄藩連合が日本を引っ張って行くべきだとする勝海舟の愛弟子であり、しかも当時は薩摩の保護下にある身だ。土佐勤皇党の武市半平太が生きていた頃は、使者として長州へも行っているから長州とのパイプもある。こうした状況が、中岡慎太郎と坂本龍馬をして、『薩長を同盟させよう』という具体的な行動に結び付けたのではなかったのか。そして、新国劇の行友李風はこうした事情をどこからか知って、『月形半平太』という人物を創作したのではなかったか」。もともとは筑前勤皇党の月形洗蔵が進めていた薩長同盟を、月形が福岡藩内の権力を握った佐幕派に処刑されたことで、龍馬と中岡がその仕事を引き継ぐ形になったというのである。

王政復古は曲者・岩倉具視の大陰謀だった、と著者は言う。「王政復古とは、『幕府を廃し将軍も無くす』という大政奉還に対し、『朝廷も廃し関白も無くす』という意図が込められた、日本大変革を目的とした『大陰謀』なのである。・・・それにしても岩倉という人物もなかなかの曲者である。・・・孝明帝がもしも死ななかったら、岩倉の目指す王政復古は絶対に不可能だったろう。将軍も関白も無くしてしまう、などという計画に保守的な(孝明)帝が賛成するはずがない。しかし、長州派公家の中山忠能の外孫(明治天皇の生母が忠能の娘)である若き(満14歳)帝が誕生したことで、岩倉は孝明帝在世中よりさらに一歩踏み込んだ、いや一歩どころか数歩踏み込んだ日本改造計画に仕立て直したのである。機を見るに敏と言うべきか。転んでもタダでは起きないと評すべきか、いずれにせよタダ者ではない。・・・『天皇こそ唯一にして絶対』つまり『関白も下級公家も同じ』という考え方は、江戸時代に出世の見込みがまったくなかった下級公家にとっては、まさに最も信奉すべき理論であった。・・・下級公家の出身である岩倉が、こうした思想をバネに時代の先端に躍り出たのも、歴史の流れによるものとも言える」。

「謀略の天才ともいうべき岩倉は、土佐の山内容堂が大政奉還を(徳川)慶喜に勧めたという情報を掴んだ。そして、ただちにその対抗策を練った」。すなわち、倒幕強硬派の岩倉は、薩長軍(官軍)と幕府軍(朝敵)との戦争を起こさせるべく、明治天皇の名も署名も印璽もない偽の「討幕の密勅(天皇の秘密指令)」を薩長両藩に下させた。このことを受けて、事態は一気に緊迫度を増していくのである。

維新政府の基本方針を定めた「五箇条の御誓文」についても、著者の探究は精緻を極めている。「まず動いたのが三岡八郎であった。後に由利公正と改めることになるが、彼は慶応4年1月の段階で既に『新政府』の方向性を定めるべく、『議事之体大意』を起草していた。龍馬の『船中八策』を受け継いだもので、『八策』に比べて具体的な改革よりも、精神的な方向性を述べている。・・・一方、この『原案』に対し、土佐藩の福岡孝悌が『加筆訂正』を行なった。・・・しかし大反撥を食らった。そこで木戸孝允が乗り出した。木戸は天成の調整役といってもいい。・・・新しい文言を入れて最終的に完成させた」。この完成版が、我々が目にする「一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」と始まる「五箇条の御誓文」である。

「五箇条の御誓文が京で布告されたのは、慶応4年(1868)3月14日だが、奇しくもその当日江戸では江戸城無血開城を決める最終的な詰めの協議が、旧幕府陸軍総裁勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の間で行なわれていた。実は翌3月15日は江戸城総攻撃の予定日だった。・・・幕府の実質的最高責任者である勝は、なんとか江戸に戦火が及ばぬように、江戸城無血開城を果たそうと苦心を重ねていた」。いろいろと紆余曲折があったものの、「いずれにせよ、3月14日の勝・西郷のトップ会談で話はまとまった」。「『江戸城無血開城』に至る勝・西郷のトップ会談は、まず3月13日江戸高輪の薩摩藩下屋敷で行なわれ、翌14日は同じく高輪の薩摩藩蔵屋敷で行なわれた」。

この「江戸城無血開城」についての著者の見解は注目に値する。「最近の論調には、この『(イギリス公使)パークス発言』こそ、江戸城無血開城を決めた最大の決め手であり、勝・西郷の交渉は副次的なものだとするものがあるが、それはいくら何でも言い過ぎというか本末転倒であろう。戦う可能性のある当事者同士がうまく妥協点を見出したからこそ、和平が実現したのであって、パークスの『外圧』がそれを助けたのは事実だが、最大要因とするのはあまりにも偏った見方である」。全く、同感である。因みに、パークスの発言とは、「降伏しているもの(慶喜)を討つのは許されない」というものである。勝と西郷というスケールの大きな人物が、この役割を担った幸運に日本人は感謝すべきであろう。