勝海舟の三男の妻、クララ・ホイットニーの日記に描かれた明治期の日本・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1517)】
東京・渋谷の明治神宮を訪れました。御苑はハナショウブとスイレンが見頃を迎えています。ここは、江戸時代初期、加藤家の下屋敷があった所です。因みに、本日の歩数は17,867でした。
閑話休題、『クララ・ホイットニーが綴った明治の日々』(佐野真由子著、臨川書店)は、勝海舟の三男・勝梅太郎の妻となり、6人の子を儲けた米国生まれのクララ・ホイットニーが見た当時の日本を再発見しようという試みです。彼女が12歳から26歳まで綴った日記には、明治期の日本が活写されているからです。
クララの父、ウィリアム・ホイットニーは、日本政府から商法教師として招聘され、家族を連れて来日したものの、行き違いから正式な御雇外国人になれず、安定した生活を送ることができなくなってしまいます。その困窮を見兼ねた海舟の好意により、勝家の屋敷内に建てられた別棟に住むことになります。ここから、ホイットニー家と勝家の家族ぐるみの付き合いが始まります。
1883年1月9日の日記には、4歳年下の梅太郎について、こう記されています。「<もっともうれしいのは梅太郎の変わりようである。祝福あれ、若者。彼は19歳の大柄な若者に成長し、物腰も控え目で落ち着いているが、何よりすばらしいのは、すっかり心が変わったことである。まったく信心深いクリスチャンになったのである。それはいろいろな振る舞いに表われている。・・・よい青年で私たちは彼を誇りに思う>。クララが梅太郎と結ばれるのは、ここから3年後のことである」。
1883年12月7日の日記には、大山捨松、津田梅子が登場します。「そのころ、クララが出会い、親しくなったのが、かの『最初の女子留学生』のなかでも、日本で初めて正式な学士号(ヴァッサー・カレッジ)を取得して帰国した、山川捨松だった。ただしクララの書きぶりからは、捨松を知ったのはあくまで陸軍卿大山巖の新夫人としてであったようである。・・・他方、クララは、在米中から知己を得ていた津田梅子とも親しく交際を続けていたことが、日記からわかる。・・・クララの新しい生活を彩っていく女性たちとの交友関係が、とりわけ鮮やかに映し出されている」。
梅子はクララの熱烈な信仰心にいささか辟易していたようだが、クララと捨松は意気投合しています。「クララが永田町の大山邸を訪問すると、捨松は彼女を自室に招き入れ、二人で2、3時間もおしゃべりを楽しんだらしい。さまざまな雑談に興じたなかでも、二人がとくに熱を入れて話したのは、『日本における飲酒の害について』、そして『日本文学について』であった。クララから見て『悩める少女』であったろう梅子と違い、捨松は1869年生まれでクララと同い年でもあり、ホイットニー家が日本の上流社会との間に築いた独特の関係に見合う『大山将軍の夫人』という立場で登場したこともあって、ごく自然な友人関係が成立したように見える」。
1884年4月25日の観桜会で間近に接した明治天皇は、このように描写されています。<今日初めて日本の天皇様にお目にかかった。天皇陛下が外交団と日本の華族の方々をお浜御殿へ観桜と昼食に招待された。・・・すばらしい光景であった。堂々とした陛下のお姿、宮廷の婦人たちの華やかな衣装、外国公使夫人方の目立つ軽やかなパリ仕立ての洋服、館員夫人たちのねずみ色や山鳩色の比較的地味は衣装、清国公使館の人々の鮮やかな絵のような服装――そのすべては私の心に決して忘れ得ぬ印象を残した>。
「天皇についてクララは、『想像していたより、ずっとご立派』であったと言い、『背丈は約5フィート8インチ(=170cm程度)か、多分もう少し低いかもしれ』ず、『明るいオリーブ色でやや重厚な』顔立ちに『小さい山羊ひげと口ひげが』あって、『快活で温和な表情』であったと、彼女らしい率直な描写を日記に残している。・・・天皇は各国公使たちの挨拶を受けると『優雅に頭を下げ、微笑され』たという」。