榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

千利休は秀吉に追放されたが、切腹はしていないという仮説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1538)】

【amazon 『千利休――切腹と晩年の真実』 カスタマーレビュー 2019年7月5日】 情熱的読書人間のないしょ話(1538)

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閑話休題、『千利休――切腹と晩年の真実』(中村修也著、朝日新書)は、千利休は豊臣秀吉によって追放されたが、切腹はしていないと主張しています。

「千利休は天正19(1591)年2月28日に(京都で)切腹して果てた、と400年を超える年月言い続けられましたが、本書では、それを否定しています。これはなかなか勇気のいることです。・・・ところが、これほど有名な人の死に関して、一次史料がないことに気づいたのは私にしても2013年のことでした。もちろん、江戸時代に作られた史料には、利休が秀吉に処分されたことを書いている史料はいくつもあります。しかし、それらは表千家が紀伊徳川家に提出した『千利休由緒書』をもとにした説の繰り返しと考えられます。利休切腹を示す一次史料はないのです」。

利休が秀吉から堺下向を命じられたことまでは一次史料に書かれているが、切腹を記した一次史料は存在しないことを、その根拠としているのです。「同時代史料で確認できるのは天正19年2月13日に堺へ下向を命じられたこと。それを古田織部と細川三斎(忠興)が見送ったことまでです。それ以降のことは後の時代の史料に拠っています」。

さらに、切腹したとされる日より後日に出された秀吉の2通の書状に、利休が生きていることを示す文言が書かれているというのです。1通は、秀吉の母・大政所付きの侍女・宰相宛てのものであり、もう1通は、前田玄以宛てのものです。

秀吉が利休を追放せざるを得なくなった理由にも言及しています。「(石田)三成たちにとって、秀吉政権がすべてであり、絶対でした。(伊達)政宗が処分できないならば、せめて政権内の自分たちの権限を確保しておきたいという気持ちがあったはずです。そして、政宗の処分をあきらめさせたからには、三成たちの次の要望(=秀吉側近として大きな力を持っていた利休の追放)くらいは叶えてやらなければ、と秀吉が譲歩したとしてもおかしくありません。それが利休の追放となって実現したわけです」。

では、なぜ、真実でない利休切腹説が流布されたのでしょうか。著者は、細川忠興(三斎)がその仕掛け人と考えています。「細川三斎が利休を守るために、わざと利休は堺で切腹したと嘘の発言をしています。これは、死体のない利休の存在を捜させないためです。こうした虚偽の発言が意味を成したのは、利休が『逐電』してしまい、その行方がわからなかったためです。もっといいますと、利休の堺追放後の様子を知る人は少なかったといえましょう」。

「三斎が、石田三成たちが伊達政宗誅殺にかえて利休を追放したいと考えていることを知ったとき、秀吉に対して、利休が京・畿内からいなくなればよいのではないかと提案し、これから遠く九州に行く(黒田)官兵衛に利休を連れて行ってもらい、避難させようと考えた可能性があります。そして、官兵衛もそのことに賛同したのではないでしょうか。そのように考えますと、三斎が淀の津に利休を見送りに行けたこと、そして文禄元年に利休が(九州・肥前の)名護屋城で秀吉にお茶をふるまったことが理解できるのです」。

論理的に構成された説得力のある一冊です。