曹操の人材登用、文学との関わり、合理主義・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1627)】
アキアカネの交尾と産卵を目撃しました。大きなトウガン、ホトトギスをカメラに収めました。我が家の庭の片隅では、タイワンホトトギス、ツユクサ、シロバナマンジュシャゲ、ヒガンバナが咲いています。因みに、本日の歩数は14,211でした。
閑話休題、『曹操――三国志の真の主人公』(堀敏一著、刀水書房)は、小説『三国演義』に引きずられた曹操伝でなく、史実に則った伝記を目指して書かれています。
「曹操は過渡期の人物であったが、漢から魏晋南北朝へ移る過渡期のなかにはっきりと位置づけられる業績を残した。漢末の前途もわからぬ混乱のなかでは、その時々の条件に対応しながら、一歩一歩道をきり開いていく必要があった。そして中国の平和と統一をもうすこしで達成するところまでいった。曹操がいなければ魏晋南北朝の時代は開けなかったのであるが、依然平和と統一は完成されたわけではない。その点で曹操がもし統一を達成していたらどうなったかというようなことを考えてしまうのだが、短い一生のなかで、非常な困難をおかしてやりとげることには限界があった。しかし曹操のやったことは、三国時代のどの英雄にもなしとげられなかったことである」。
曹操の生涯で、とりわけ興味深いのは、その人材登用、文学との関わり、合理主義の3つです。
第1の人材登用について。
「曹操の人才主義をしめす代表的な布令のなかに、<唯(ただ)才を是れ挙げよ>という表現であらわれる。・・・要するに『廉士』である必要はなく、また身分に関係なく貧賎であってもよい、ただ才能さえあればよい、そういう人間を推薦せよといっている。・・・曹操が賢人といっているのは才能ある人間で、徳行ある人間は排除されている。・・・徳行と進取はかならずしも一致しない。徳行のある士を採るよりは、短所があっても、実行力ある人間を採れといっている。・・・建安22(217)年8月には、この『短所があっても』というのを、もっと具体的に述べている。有名な<不仁不孝>でもよいという言明である。・・・儒教道徳で最も重視される仁と孝とを否定して、<不仁不孝>でも<治国用兵の術>があればよいといっているのであり、曹操ははっきりと価値の転換をおこなっているのである」。
第2の文学との関わりについて。
「曹操の死に関連して、誰もが引く曹操の詩の一節がある。<老驥、櫪に伏すとも、志、千里に在り。烈士、暮年、壮心已まず>。かれは年老いて、時に病に伏しても、若いときからの志を忘れられず、鬱勃たる胸の思いを捨てきれない。気性の激しいかれは、晩年になっても、血気さかんな、はやる気持を抑えられない」。
「(魏志武帝紀は)曹操の戦塵のなかでの読書と作詩をのべているが、作られた詩は楽器にあわせて歌われたことをしめしている。これは建安文学の出発点がどういうところにあったかをよくしめしていると思う。曹操は陣中に楽人をもともない、宴席等でかれらに伴奏させて、自作の歌を披露し、臣下にも作詩させ、歌わせていたのではないかと思われる。そしてこれをみた曹丕・曹植や七子らが、それぞれサークルをつくり、より自由な形式の詩に発展させ、やがて唐詩にいたる道を開いたのであろう)。
第3の合理主義について。
「曹操は享年66。その遺令は、魏志武帝紀によると次のようなものであったという。<天下はなお未だ安定していないから、昔からのしきたりに従うことができない。埋葬が終わったならば、みな喪に服するのをやめよ。各地に駐屯している将兵は、みな駐屯地を離れてはいけない。官吏はそれぞれ自己の職務につとめよ。遺体を包むには平服を用い、金玉珍宝は副葬しないようにせよ>。・・・葬式も服喪も古式にのっとらず、思いきって簡素にせよというのはいかにも曹操らしい。虚飾を嫌った合理主義がここにも顔を出している。・・・天命観や諦念や来世への関心は曹操にはさらさら無く、まだ成し遂げなかった覇業の継続を願い、そのために現体制の永続を思う心がつよいところから、このような指示(=違令)が出てくるものと思われる」。