榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ノルマン人とは、どういう人たちで、突然、姿を消してしまったのはなぜか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1630)】

【amazon 『ノルマン人』 カスタマーレビュー 2019年10月4日】 情熱的読書人間のないしょ話(1630)

ルリマツリ(プルンバゴ)が薄青色の花を、ガウラ(ヤマモモソウ、ハクチョウソウ)が白い花を、シュウメイギクが白い花を、メドーセージ(サルビア・ガラニチカ)が青い花を、オクラが黄色い花を、コスモスがさまざまな色合いの花を、カンナが朱色の花、赤い花を、イヌサフランが薄紫色の花を咲かせています。ススキの花穂が風に揺れています。因みに、本日の歩数は10,546でした。

閑話休題、ノルマン人とは、どういう人たちなのか、そして、ヨーロッパ各地を征服し大活躍したノルマン人が13世紀に姿を消してしまったのはなぜか――これらの疑問に真正面から答えてくれたのが、『ノルマン人――その文明学的考察』(R・H・C・デ―ヴィス著、柴田忠作訳、刀水書房)です。

「ノルマン人はその征服活動によって歴史に名をとどめているが、また、征服地の先行する文化を継承し、しばしばこれに改良の手を加えた手腕にも見事なものがある。ノルマン人はもとスカンディナヴィアに居住するノースマン(北方の人の意――ゲルマン人の一派でノース語を使う)であるが、多年フランク王国に圧力を加え、911年にその首長の一人が西フランク国王からノルマンディーを公領として認められた後、急速にフランク族の文化を吸収し、しかもその本質的な特色をそこなうことなく継承に成功した。11世紀後半にはすでに、その文化はヨーロッパの最前列にあった。その修道院、学校、また諸建築物において盛名を得たが、なおかつ軍事力においても彼らをしのぐ勢力はなかった」。このノースマンはヴァイキングという名で知られていますね。

「征服事業の中で最も有名なものは1066年のイングランド征服である。それは、すばやくかつ完全になされ、その支配権は永続的なものであった。その結果、ノルマン人は当時のヨーロッパにおいて極めて富裕となり、イルマンディー公はイングランド王となった」。これだけでなく、ノルマン人はイタリア、シチリア、ギリシャ、シリア、ロシアなどでも征服を成功させ、彼らの国を建設しました。その上、「ノルマン人は歴史上最も適応力に富み、寛容で、すぐれた理解力に恵まれた文化の保護者であった」のです。

「このようなノルマン人について最も謎めいた点は、彼らが歴史の上から姿を消したいきさつにある。イングランドでは早くも1154年、ノルマン王家にかわってアンジュー家の支配が出現し、シチリアでは1194年からドイツ人の王の支配を見、またノルマンディーそのものは1204年にフランス人の手に渡った。ボヘモントの後継者たちはアンティオキア公国の最後の残存部分を1287年まで、持ちこたえたが、彼らはもはやみずからをノルマン人とは考えなかった。11世紀から12世紀にわたってヨーロッパの文化の諸分野にあれほどの影響力をおよぼした人びとは、13世紀にはいとも簡単に姿を消してしまったのである。これはどのように説明したらよいのであろうか」。

「(時の経過とともに)ノルマンディーのノルマン人は異教を棄て掠奪行為をやめて文化的な言葉(フランス語)を使うようになっていたのであり、したがって、ノルマン人自身にしても他の者たちにしても、当時なお北方の海賊であったノースマンと区別しようとしたのはごく自然なことであった。同じように、イングランドに定住したノルマン人の子孫は、12世紀の末葉には一般にイギリス人と呼ばれるようになったが、それは彼らが敵対者であるフランス人から自分たちを区別するためであった」。すなわち、ノルマン人は、それぞれの定住地で、フランス人、イギリス人、シチリア人などに変身を遂げてしまったのです。