織田信長は新しい時代を切り開いた革命児ではなかった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3047)】
早朝、ヴェランダで洗濯物を干していた女房が、アシナガバチに2カ所刺された! 痛い!と駆け込んできました。急いで皮膚科に連れていったが、まだ上唇が大きく腫れています。アゲハ(写真1、2)、ツクツクボウシの抜け殻(写真3)をカメラに収めました。テッポウユリ(写真4)、タカサゴユリ(写真5)、ルリマツリ(プルンバゴ。写真6)、ハイビスカス(写真7、8)が咲いています。
閑話休題、『織田信長――戦国時代の「正義」を貫く』(柴裕之著、平凡社)は、織田信長は新しい時代を切り開いた革命児という定説化しているイメージは修正が必要だと主張しています。
「さまざまな角度から信長をみることで得られた信長の『実像』が、時代を破壊し逸脱する『革命児』でなかったことは、もうはっきりとしただろう。・・・天下人となった信長は、戦国時代の室町幕府将軍足利氏の役割を継承、『天下布武』のスローガンのもと、朝廷や寺社勢力を庇護した。さらに、自らの持つ『武威』を背景に各地の大名・国衆とその地域『国家』を従属させ、『天下(日本の中央)』のもとに統制し並存させる『天下一統』の事業を進める。この時、信長が描いた政治構想とは、中央統治の実務を取り仕切る武家の棟梁=天下人を織田家の嫡系が継ぎ、その傘下にある中央権力(織田権力)が『天下一統』と国内静謐(『惣無事』)を維持することで『政権化』させるというものであった」。
「このように、信長は同時代の諸勢力と共存しながら活動し、自らの武威のもと、社会秩序の保障に務め、天下人として君臨していった。したがって、信長による『楽市楽座』や関所の撤廃、道路・橋梁の整備といった政策も、他の大名と同様、それぞれの地域の事情に応じて実施されたものであり、決して革新的なものではなかった。つまり、現実的な対処に過ぎなかったのである。信長にみえる基本的な志向とは、総じて現状に支障を来す障害を取り除き、もともとの機能を最善化させることであり、政治の手法や社会の秩序などに改変をもたらすことではない。ただし、織田権力が急激に勢力を広げたこと、しかも広域に及んだことは事実であり、いうなれば質的ではなく量的な動きにこそ、彼の事業の特質が見て取れるといえるだろう。その根底には、『外聞』を重視し、『有姿』に基づくという方針があった。『有姿』とは、『ようす、ありさま、事の次第』を意味し、信長は『外聞』=世評を重視したうえ、この『有姿』=望ましい現状のあり方を求めたのだ。彼はあくまで、時代や社会の状況に応じた望ましい現状の追認=『当知行安堵』を方針として掲げ、事業を進めていった」。
歴史学界の研究の最新成果がふんだんに盛り込まれているので、著者の主張には強い説得力があります。「革命児・信長」に魅力を感じてきた私としては、いささか微妙な身持ちです。